2009年07月22日

神仏は妄想である 252

即身成仏とは、何か。
日本仏教は、これにより、撹乱された。

この身のままに、仏になる、つまり、それは、他宗派が、いうところの、悟りである。

原始仏典には、仏の教えを聞いて、ただちに、悟りを得るということも書かれているが、次第に、教義が複雑になるにつれて、仏の悟りに至るには、何度も輪廻を繰り返して、修行を積まなければならないという、観念が、登場し、一般化した。

菩薩でさえ、その修行が完成して、仏になるには、サンアソウギコウ、阿僧祇という数え切れない意味の巨大な数の単位であるが、ほとんど、無限ともいえる、長期間の修行が必要となる。

つまり、脅しである。

ペテンである。

しかし、逆に、悟りは、遠くにあるものではないという、華厳経における、観念もあった。

それも、勿論、ペテンである。

だが、インドでは、つまり、本場では、そのような観念は、発展しなかった。
正統派の立場からは、それは、あくまで、前世で修行を積んだと特別の、場合である、とのこと。

広く一般の、修行者には、可能なものとは、考えられなかったのである。

いずれにせよ、悟りとは、それぞれの観念でしかない。

それでは、釈迦仏陀は、何を言ったのか。
静かに息を吸い、静かに、心の働きを、見つめて、心を、我がものとして、生活するという、生活指導を行ったのみ。

何故、怒りの心が、起こるのか、何故、悲しむのか、何故、嬉しいのか、何故、泣くのか・・・
兎に角、心を、見つめて、その心を、何にも囚われない状態にしておきなさい、である。

それは、内省であり、内観である。

外の世界以上に、わが心の世界は、無限に広いのである。
それを、言った。

法則と、秩序を、見なさい。
そして、我が心を、見つめなさい、である。

悟り・・・
何故、悟りが必要なのか。

さて、東アジアに、仏教が、伝えられると、輪廻の思想などは無い。
それゆえ、現世での、悟りというものを、追求し、可能であると、考えられるようになる。

それが、禅である。
特に、中国仏教である。

しかし、禅は、果たして、仏教のものかと、言えば、多分に、中国思想、老荘思想が、影響を与えたことは、以前に書いた。

更に、密教は、中国でも、一時的な思想だった。
であるから、中国では、即身成仏の思想も、展開することなく、発展もなかった。

それに対して、日本では、即身成仏の思想が、思想的に、大きなテーマになった。
空海のせいである。

更に、最澄も、法華経に基づく、独自の、即身成仏を、掲げた。

だが、空海は、密教以外に、即身成仏の方法は無いと、断定する。
他の宗派、顕教では、密教の悟りは、得られないのである。
空海の、作戦勝ちである。

最澄の、即身成仏は、法華経の、竜女の成仏を持って、即身成仏するのであるという。

海中に住む、竜王の八歳の、娘が、仏に宝珠を捧げて、変じて男となり、仏に成ったという、お話からである。
これには、無理がある。

竜は、人間ではない。
更に、それは、御伽噺である。

苦し紛れの、即身成仏である。

それでは、空海の、即身成仏義、を、見る。

六つの原理は障碍なく交じり合い、常に融合しあっている「本体」
四種類の曼荼羅は一体のものであって互いに離れることがない「性質」
身体・言語・心の三種のはたらきに仏が働いて、これを、三蜜加持という、速やかに悟りが顕われる「はたらき」
幾重にも重なって帝釈天の網のようであるこの身のまま「仏になること」と名づける「障碍のないこと」
おのずから自然のままに完全な智慧を身につけ
心の性質も心の本性も無限にわたりそれぞれが五つの仏の智慧と限りない広大な智慧とを具えている鏡のように完全に智慧であるから真実の悟りの智慧である「成仏」

これで、それ以来、撹乱され続けてきた。

前半四句で、即身を、説き、後半の四句で、成仏を説く。

前半は、即身成仏が可能になる原理を説き、後半は、仏の悟りに達した、境地を説く。

実は、裏技がある。

仏になるというのは、われわれは、元から、仏の素質、いや、仏なのであるから、即身成仏が可能となるというのは、本来、われわれは、すでに、仏と同質であるという、前提がある。
これを、本来成仏、という。

言わせておけば、いい気になって、である。

彼らは、何とでも、言う。
りんごは、みかんからは、出ない。
仏は、仏からしか、出ない。
人間が、仏になるのは、本来、仏であるから、だ、である。

空海は、凱旋するように、死んだ。
運である。

最澄は、論争の中で、死んだ、
運である。

その、論争相手は、法相宗の、徳一である。
つまり、最澄は、悉皆成仏。
人は、皆、仏になるという。

徳一は、三蔵法師玄奘の、絶対仏になれない、人間がいるとの、教義を、掲げた。

それを、無性という。
いずれ、それについては、書くことにする。

ちなみに、空海は、六つの、原理を、言うが、後に出た、かくばん、という、密教家は、五つとした。
六でも、五でも、ペテンであるから、どちらでもいい。

かくばん、に、関しては、論じるほどのものでなし。
省略。
今でも、霊界で、迷っているらしい。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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