2009年07月18日

神仏は妄想である 248

五相成身観

即身成仏・五つの過程
五相成身観は、凡夫が、仏になるまでの、過程を五種類に分類したものである。

密教の即身成仏の技法は、さきに述べた通り、三蜜加持が中心であるが、その三蜜行の中で最も中心となるものは、いうまでもなく、意蜜の行である。この意蜜の行( 観法・または観想) にはいくつかあるが、その最も主なものは、この五相成身観と阿字観( 本不生観ともいう) である。このうち阿字観は「大日経系統」すなわち「胎蔵法」に属する法で、五相成身観は「金剛頂系統」すなわち「金剛界」に属する観法である。
桐山

五相成身とは、
一にはこれ通達心、ニにはこれ菩提心、三にはこれ金剛心、四にはこれ金剛身、五にはこれ無上菩提を証して金剛堅固の身を得るなり
とは、空海の、菩提心論にある。

その方法は、結跏趺坐して、数息観に入る。
静かな呼吸とともに、一から七までを数え、もどって、七から、一までを数える。
無識身三摩地といい、心を空虚に、何事も、心に留めない。
無心、無我の心を得るためである。
その境地に入ったら、続いて、「空観」に入る。観想中の、けんだつばしょう、は、空想上の城、旋火輪は、棒に火をつけて、くるくるまわすと火の輪のように、見える。
しかし、その火は、実在しない。
だから、もとに、架空の存在で、われわれが、実在と見ているものすべてそのように架空の存在に過ぎないと観ずるもの。
すなわち、「空」の定に入るのである。
この空の定に入ることにより、智を表示する、蓮華部の仏の加持を得て、その加持力により、次の、通達菩提の三昧に入る。

その後、延々と、行が、続くのである。

例えば、お茶のお手前のように、進んでゆく。
そして、即身成仏となるのである。

ちなみに、桐山氏も、観無量寿経による、阿弥陀仏の浄土に生まれるための、十六の観法を、紹介している。

一、 日没を観じて西方極楽を想う日想観
二、 水と氷の美しさを観じて極楽の大地を想う水想観
三、 水想観を完成して極楽の大地を想う地想観
四、 極楽の宝樹を想う樹想観
五、 極楽の池水を想う八功徳水想観
六、 極楽の宝楼を想う楼想観
七、 阿弥陀仏の蓮華の台座を想う華座想観
八、 仏像をみて阿弥陀仏の姿を想う像想観
九、 阿弥陀仏の真のすがたを想うことによって、一切の諸仏のすがたを見ることが、できる、遍観一切色身想観
十、 阿弥陀仏の脇侍である観音を想う観音観
十一、 おなじく勢至を想う勢至観
十二、 一切の浄土の仏・菩薩などを想う普観想観
十三、 以上、10から12の、観想のできないものが、大身、小身の阿弥陀仏などを、観ずる雑想観
そして、最後に、それぞれの能力、素質に応じた、修行により、極楽に生まれるさまを想う、14の、上輩観、15の、中輩観、16の、下輩観である。

この、十六観法は、極楽浄土に、往生成仏するための、修行法である。

それら、一切を、切り捨てて、念仏、一本槍で、救われると、説いたのが、法然、親鸞、その他、諸々である。

そこで、桐山氏は、
あきらかに、即身成仏の修行法としては、密教の三蜜加持の方法が最もすぐれ、最も進歩したものである。法然、親鸞は、皮肉にも、より高度に進んだ三蜜を捨てて一蜜をとることにより、それより古くて劣った「観無量寿経」を、「大日経」とおなじ地位にまで引き上げたのである。ただし、それは、目に一丁字もない平安、鎌倉の庶民を布教の対象にしたがゆえに可能であり、妥当であったのだ。

更に、日蓮にいたっては、最澄の苦悩である、法華経に、いかにして、三蜜加持を取り入れるかというものを、あっさりと、題目一蜜のみを採用することで、解決した。

日蓮は、仏教の知識なく、教養乏しい、庶民を対象にしたがゆえに、可能であり、妥当となったのである、と、桐山氏は、言う。

最もである。

鎌倉仏教は、三蜜加持を捨て、経典中の、観法をも、放棄した。

堕落。
そのように、専門職の、僧たちには、見えただろう。

ここで、桐山氏は、面白いことをいう。

私は思うのだが、まことに皮肉なことながら、鎌倉時代の民衆は、平安密教の高度で複雑な三蜜加持では成仏できず、単純素朴な唱題唱名念仏でなければならなかったが、高い教養と複雑な心理構造を持つ現代人は、それとはまったく逆に、単純素朴な唱題唱念仏で成仏することのほうが、かえってむずかしくなっていると想われるのだが、・・・・


ここ、ここに至ると、仏教経典というものの、いかがわしさというものが、顕著である。

鎌倉仏教は、即身成仏できるという、安心を与えるだけで、即身成仏することは、放棄してしまったと思われると、桐山氏は、言う。

私は言う。
それ以前に、即身成仏するという、経典を書いた者たちの、意図は、何だったのか、である。

そして、何故、人間は、人間ではなく、超越したかのように思える、即身成仏を目指す必要があるのかということである。

インド思考の、遊びに、乗せられたのである。
更に、それを、中国にて、徹底的に、味付けして、妄想逞しく、行法を完成させたと、思わせた。

つまり、騙しである。
こけおどしも、ここまで来ると、詐欺である。
スーパーマンのお話を、読んで、スーハーマンになるべく、努力するという、幼児の遊び心と、変わらない。

まとめて、言えば、空海の、密教が、高度な修行体系を作り、鎌倉仏教の開祖たちは、ハウツーものの、仏教を、作り上げたといえる。

兎に角、信じる者は、騙されるということ、である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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