2009年07月17日

神仏は妄想である 206

竜樹の説いたことは、何か。また、何を説きたかったのか。

そこで、別の角度から、検証するために、定方晟氏の、空と無我、という、本を参考にする。
この方は、東大フランス科卒業で、フランスに留学し、バリ大学で、インド哲学を学ぶという。フランス文学などを、学んだ人が、多く、仏教思想を学ぶというのは、何かと、興味深いのである。

竜樹は、「行く」という動作はないと主張する。というのである。

かれは、このことを主張するにあたり、動作の存在を過去、現在、未来の三時にわたって検討する。過去に「行く」という動作はない。過去の動作はすでにおわっているから。未来に「行く」という動作はない。未来の動作はまだおきていないから。ここまではだれもが納得するだろう。しかし、ナーガールジュナは、現在にも「行く」という動作はない、とつづける。
定方

実に、解りやすい説明である。

そして、続ける。
かれはそのことを「行きつつあるときにも行くことはない」という表現で述べる。なぜ「(行きつつあるとき)(行くこと)はない」のか。理由はこうである。(行きつつあるとき)という時間の設定は、それ自身のうちに(行くこと)を前提として含んでいる。これは論点先取りの誤謬である、と。だから「行きつつあるとき行くこと」はありえない。


現在とはなんだろう。時間とはなんだろう。ものから独立し、ものを受けいれようと待機している時間があるのだろうか。時間はものがあって初めて存在する。厳密にいえば、運動するものがあって初めて存在する。地球の自転、公転、歯車の回転、原子の運動などがあって初めて、時間が存在する。「行くこと」があって現在が存在する。ナーガールジュナは第十九章「観時品」でのべている。「ものがなければ時間は存在しない」と。


人は、運動を時間的継続のものだと、捉える。
それは、体験から出たものにすぎない。
時間というものは、人が反省、振り返った時に、現われるというのである。

竜樹は、「行くものは行かず」という、フレーズを何度も、繰り返す。
それが、竜樹の、核なのである。

行くものは行かずという、訳を、クマーラジューバは、西暦409年に、去者則不去、とした。

サンスクリット語では、動詞「行く」の語幹に、その動作を行う主体を表す言葉を、加えている。
そこで、サンスクリット語を、「行くものは行かず」と訳しても、妥当であるという。

漢訳の「去る者はすなわち去らず」というのも、問題ない。

そこで、定方氏は、日本語訳である「行くものは行かず」で、話を進める。

行くものが行くということが
どうしてありえよう
行くことなしに
行くものはありえないのだから

「行くものは行く」という考えには、「行くもの」と「行く」とは二つの独立した事象であるという前提が含まれている。したがって、「行くもの」はそれ自体のうちにすでに「行く」を含んでおり、あらためて「行く」と結び付けられる必要はない。「行く」ことをしない「行くもの」など、そもそもありえないのだから。
だから「行くものは行く」とい立言には、「行く」が二重に存在するという矛盾が生じる。このことはつぎのげにのべられている。

もし行くものが行くというならば
二つの「行く」が存在する結果になる

第一は「行くもの」と呼ばれうるゆえんの「行く」であり、第二は「行くもの」がおこなう運動としての「行く」である。そしてまた二つの「行く」があるならば、二つの「行くもの」が存在するというおかしな結論が生じるだろう。なぜなら、「行くもの」なしに「行く」ことだけがあることは不可能だから。このことは第六げにいわれている。

二つの「行く」があるならば
二つの「行くもの」が存在する結果になる
なぜなら、「行くもの」なしに
「行く」ことはありえないからである

定方氏は、竜樹の、言語の本質をするどく洞察した議論であると、いう。

あらゆる現象は、それ自体分割できない全一なものである。しかし、言語で表象しようとすると、われわれはまずそれを主体と動作に分割し、あらためてそれを結合するという手続きをとらねばならない。その結果、「行くもの」(主語)が「行く」(述語)という言表が成立する。

以上、定方氏の、解説である。

理論と、論理の違いを、考えてみるのも、手である。

仏教には、ものに、実体性がないということを、徹底して、議論し、人に説いた。
それが、空、縁起、中、無自性などである。

竜樹は、それを突き詰めて、説いたということだ。
更に、言葉の限界に挑戦した。

何度も言うが、当時は、論争の時代である。

定方氏は、更に、
無我を悟るには心を探求するよりも言語を探求するほうが効果的であることも、かれの言語批判は教えてくれる。かれは言葉を一種の虚構とみたが、そのことを説明するためにかれが頼るのは飽くまでも言葉である。かれは言葉でみちびけるところまで人をみちびく。そして、どの方角に真理があるかを指し示す。かれは言葉の限界を知る合理主義者、すなわち、徹底した合理主義者である。
定方

これに、反論する、大乗仏教の理解者達が、大勢いると、思われる。

言葉を、一種の虚構とみた、そして、合理主義者である。

端的に、言葉を、ロゴスとして、神に変容させた、キリスト教とは、絶対的に、対立するほど、言葉の、虚構性を、見たといえる。

そこでは、兎に角、信じて、仏の家に投げ入れてなどという、詭弁は通用しないということだ。

伝える手段は、言葉である。
その言葉の限界を、徹底して、身につけるべきである。

ところが、日本人は、言霊という、とてつもない、虚構を持つに至った。それは、感受性である。
言わず語らずの、姿勢、つまり、言挙げせずという、伝統である。
さあ、困った。

兎に角信じて、お任せして、云々という、言葉のみで、邁進した。そうすると、自ずと、理解される、解ってくる。
悟りは、言葉で、表現出来ないものだ、云々。

しかし、禅の世界では、言葉で、悟りを伝えるという、アレッおかしいと思うことをする。

要するに、ミソも糞も、一緒にして、仏の道を、論じる。
更に、漢語に迷う。

ひねくれ者、偏屈者の、竜樹にしてやられるのである。

空、縁起、中道という、ものが、同一であると、聞いて、日本の仏教愛好家が、どれだけ理解しているのか。

それでは、不本意ながら、空を、徹底的に説く、皆様、お好きな、般若心経を、少し見ることにする。

ちなみに、三蔵法師で有名な、玄奘訳である。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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