2009年07月17日

悲しみを飲み込んだハノイへ 2と3の間

この原稿は、2と3の間に、入るものだった。
だが、突然のように、消えた。いや、私が、疲れているのだろうと、思う。書いたのだが、保存をしなかったと、思う。
実は、毎日、微熱が出る。
風邪かと思いきや、熱中症である。つまり、暑い国に出掛けて、慢性的になってしまったようである。
熱中症は、ただただ、水分を補給し、果物を食べることである。か、または、点滴を受けるかである。
私は、点滴の時間が、耐えられないので、水と、果物を食べる。
順番が、交わるが、許していただきたい。



翌日の朝、ホテルのフロントの男から、昼間は、気温が凄く高くなるといわれて、私たちは、朝のうちに、ハノイの街中で、支援物資を手渡してみようと、思った。

まず、男の子に、ミニカーを渡して、手応えをと、考えた。

早速、朝七時過ぎの、ハノイの街中に出た。
ホテルから歩いて、もう、すぐに繁華街である。

ホテルから、数分の場所に、ホアンキムエ湖がある。
そこを通った。
すると、周辺には、大勢の人である。
何をしているのかと、思いきや、体操、太極拳、ダンスなど、自由に、体を動かす人たちである。

この光景は、上海を思い出させた。
15年以上前に、一人で、上海に行き、バンド地区の、川べりで、皆々、太極拳などをしていたのを、思い出した。

さて、のんびりしていられないと、大聖堂を目指して歩く。

まず、物売りの男の子を見つけたので、早速、ミニカーを取り出して、差し上げた。が、その子は、受け取らないのである。
ノーと、言われた。

驚いた。
そんなことは、今までになかった。

次に、父親と、道端で食事をしていた、男の子に、渡した。すると、すんなりと、受け取ってくれた。父親が、サンキューと礼を言う。

次に、母親と、祖母と一緒にいた子に、差し上げるために、ミニカーを出すと、ノーと母親に言われた。祖母も、いらないと、首を振る。

はて、どういうことか。

更に、子供を捜して、渡してみた。
そこで、半々の割合で、貰う子、拒否する子がいた。

どうも、意味が解らない。
その意味は、後で知る。

私たちは、よく、歩いた。

ハノイの街中には、細い小路が、沢山有る。
その一つに、興味半分で入ってみた。

そんな小路の中でも、商売をしている人がいる。
行き止まりまで、歩いてみた。

すると、扉が開いている、建物に行き着いた。
その中に、入る。

雰囲気が違う。
普通の建物ではない。
壁一面に、何か書かれている。

人の名である。
なんだろうと、奥まで入る。
写真がある。焼香台がある。
つまり、納骨堂か・・・

いや、単なる納骨堂ではない。
戦死者である。皆、戦争で亡くなった人である。

そういう建物が、ハノイの至るところにあることを、後で、知る。

私たちは、そこから出て、元の場所に戻った。
くるくると、回ったような感じである。

それから、また、街中に入って、歩いた。
矢張り、受け取る子と、受け取らない子がいる。

不思議だった。
私の格好は、和服ではない。タイパンツを履いていて、単なる、おじさんになっているのであるが・・・

二人の子供を連れた、母親と、出会った。
そこで、ミニカーを出して、プレゼントというと、母親が、受け取ってくれた。

一時間ばかり歩いて、何となく、解ったような気がした。

子供だけがいる時は、受け取らないのである。

つまり、子供の判断では、駄目なのである。
傍に、大人、親、祖父母などかいて、了承しないと、子供は、受け取らない。
更に、ハノイの人は、人見知りである。

または、疑い深いのかもしれない。

人生には、そんな、上手い話はないのである。
それは、ベトナムの歴史を見れば、解る。
そして、長年の戦争である。

人を疑うのが、当たり前である。
ベトナム人は、ベトナム戦争で、同じ民族が戦ったのである。

当然、そういう気質が出来るだろう。

私たちは、随分と歩き、ここでの、支援は、難しいと、思った。
どんなに、貧しく、欲しくても、長上の許しがなければ、受け取らないのである。
それは、また、儒教の影響であろうか。

昔のベトナム文化は、漢字の文化であった。
何せ、中国の統治が、千年も続いたのである。

次第に、気温が上がる。汗ばむのから、汗が出るようになった。
そして、どんどんと、車と、オートバイの数が多くなる。
いよいよ、街が、活気付いてきた。



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