2009年07月17日

神仏は妄想である 247

入我我入観

これは、文字の通り、対象とするものが自分の中に入り、自分もまた対象の中に入るということであるが、「入る」ということは、「合体一致」するということである。したがって、これが完全になされたら、当然、対象そのものになってしまうことになる。
桐山靖雄 密教入門

これが、密教の、根本原理であり、即身成仏とは、この、入我我入の対象を、仏に置いたものであると、いう。
この技法を体得したら、対象次第では、何にでも、変身できるというわけだ。

そして、驚くべきは、ここでは、大日如来を対象とする。
勿論、密教では、修法の種類によって、どんな仏にでも、変身するのである。

その前に、大日如来という、存在は、想像の産物である。
一体、どうして、その想像の産物と、一体になるのか。

頭が、イカレているとしか、思えない。

われわれの目の前に、本尊の浄土を思い浮かべ、そして、そこへ浄土におられる本尊を迎えて、これを合致せしめ、これに供養してから、入我我入観という、本尊と自分と無二一体であるという観想を凝らす・・・

例えば、不動明王に場合は、不動の真言を唱え、不動の心を心とし、我が三業が、仏の三蜜と一致する本尊加持の作法を修し、不動と無二一体であって、本尊我に入り、我本尊に入る。一切衆生もまた本尊に入る。本尊と我と一切衆生と無二であるとの観想を凝らすことが、入我我入観、即ち、身蜜の一致を示したものである。

仏の身、語、意のはたらきを、三蜜という。
それに対して、凡夫は、三業である。

三蜜加持とは、凡夫の三業を、仏の三蜜と合致させるという意味であり、入我我入は、その、最も、中心とするところである。

入我我入観は、三蜜加持のうちの、身蜜の成就である。

ここで、入我我入と、入我我入観とは、違う。
入我我入は、三蜜成就して、即身成仏を完成した状態であり、観の方は、身蜜だけの、一蜜成就法である。

そこでは、まだ、語蜜と、意蜜が、成就していないということになる。

意蜜成就の法は、字輪観と言う法である。

仏の心のはたらきを、観ずるものである。

真言密教では、本尊の種字の字義を観ずるのは浅略であるといい、その真言を観ずるのは深秘であるとし、その梵号の一々の字を観ずるのを最深秘とし、秘中の秘であるとする。
桐山靖雄

その、梵号とは、ア、バ、ラ、カ、キャの五字を、観ずることである。
この、五字は、地・水・火・風・空の、五大要素であり、森羅万象、宇宙のあらゆるものが、この五大によって、成り立つ。

この、五大において、我と仏とは、無二一体である。

また、この五字には、同時に、五智が含まれている。
つまり、五字は、五智の種字真言でもあり、五智獲得に通じて、これを観ずることは、意蜜の、行になるというのである。

まさに、インド哲学の、粋を集めての、行である。

つまり、バラモンの行である。

甚だしいのは、大日如来との、一致、合体などという、とんでも、妄想である。
更に、想像の産物としての、様々な、仏との、合体だの、一致だのと、掲げる。

勿論、本人は、その気であるから、何の問題もない。

それを、修行として、やる、というなら、止めることもない。
だから、それが、唯一絶対の、法であると、言うならば、私は言う。
妄想である、と。

生身の肉体を、持ち、糞、小便、目糞、鼻糞、耳糞と、糞まみれの、人間が、一時的に、仏になったという、感覚を得ても、所詮は、人間、つまり、生身の人間から、離れることは、出来ない。

ただ、知的刺激としては、お勉強するに、暇つぶしの最たるものである。

一体、全体、人間は、こうも、救われぬものなのか。
何故、人間として、生きて、それで、善し、としないのか。
どうしても、妄想の只中に、身を入れて、他とは、違う存在であると、差別を、優越意識として、持ちたいものか。

更に、その、基本は、妄想である。

空海という、人間の、偉大性、巨大性は、認めるが、ここ、ここに至ると、教祖、開祖が、持つ、異常性を見るものである。

我は、人と違う。
我は、特別な者であるという、意識。

それは、どんな宗教を、信じる人にも、共通する、選民意識に、似る。

宗教の教祖に見る、偉大性は、その、勝れた才能に見ることが出来るが、上記のような、行を持って、仏と、合致するなどいう、妄想は、とても、受け入れられるものではない。

現代で言えば、カリスマ性というのだろうが、それぞれの才能の場面での、カリスマ性というならば、理解するが、妄想の産物との、一体、合体、一致などというと、あはれ、というしかないのである。

この、密教系から、出た、多くの宗教団体は、兎も角、そのような、異常、異質な、感覚を善しとする。

甚だしいのは、霊能力者養成などという、馬鹿げた、修行を奨励するものもある。

特別な力を、得たいという、妄想の欲望を、手玉に取るのである。
人間は、人間以外のモノに、憧れてはいけない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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