2009年07月08日

神仏は妄想である 237

釈迦仏陀、滅後、約千年を経る頃である。

グプタ王朝は、五世紀末に、衰微し、崩壊する。
480年頃より、フン族が侵入し、インド文化を破壊する。

533年、フン族は、ヤショーダルマン王に破られる。
しかし、しばらくインドは、分裂状態に陥った。

その後、ハルシャ王が現れて、北インド一帯を統一する。
だが、王が死ぬと、また、分裂状態に陥る。

カナウジに、プラティハーラ王朝、デカン高原には、チャールキヤ王朝と、南端の、バッラヴァ王朝が、主要なものだった。
その王朝により、南インドには、現存する、巨大な、ヒンドゥー寺院が、多数作られる。

また、ビハール、ベンガルでは、パーラ王朝や、セーナ王朝が統治した。

その頃、タントラと共に、真言密教が栄えるのである。

チベットへ密教が入ったのも、パーラ王朝の統治下の地域から。

その他、諸地域には、幾多の王朝の交代が、十世紀、十一世紀に、イスラムが入るまで、続く。

この時代、476年の、西ローマ帝国の、滅亡により、西方との貿易が、衰退し、インドの貨幣と、ローマとの、貨幣価値が、消滅して、インドにおける、貨幣の統一も、破れ、貨幣経済が、衰退する。

それは、商業資本の没落と、萎縮をもたらし、インドの、停滞する農業に基礎をおく、政治、文化勢力が、伸張することになる。

問題は、商業資本に、支持されていた、仏教と、ジャイナ教が、衰退し、バラモンと、ヒンドゥー教が、広く受け入れられるようになることである。

哲学に関しても、前時代に、成立したものが、継続的に、発展したのに、留まる。

仏教と、ジャイナ教は、時に、迫害されたり、寺領を没収されたりもした。

そのため、仏教では、民間信仰を取り入れたりし、密教が、盛んになったのである。

学問では、バラモン教哲学により、研究されるようになる。

自然、仏教の教義の中に、バラモンや、ヒンドゥーの影響が、出てくる。
これを、見逃すと、仏教を、見誤る。

この頃の、バラモン教、ヒンドゥー教の発展を見ると、変化なく、すでに成立した、諸学派が、それぞれの学説を、固持していた。

この時の、ヴァイシェーシカ学派が、面白い。
慧月という者が、勝宗十句議論というものを、著した。玄奘が訳している。

十句とは、六句義のほかに、普遍的、特殊なるものとして、可能力、無能力、無というものを、提案した。

彼は、有性のみに、限り、特殊を極限における、特殊として、中間を、置かなかった。
この、有性とは、仏性と、玄奘は、解釈している。

可能力は、実体・性質・運動が、その結果を生じさせる能力であり、無能力は、それのないこと。そして、無である。無とは、この時代から、独立の原理として、認められた。

無としては、四つの、種類が、立てられた。
未生無
あるものが、現在はまだ、生起していないこと。未来の有である。
己滅無
あるものが、すべてに、滅びてしまった。現在は無いもの。過去の有である。
更互無
二つの異なるものの間において、互いに、他のものではないこと。
畢意無
絶対にありえないこと。

無に関する、思弁は、後世のインド論理学に、多大な影響を与え、発展させた。

おわかりのように、何も、無は、仏教の、専売特許ではない。

彼らから、仏教が影響を受けたとも、いえる。

これは、インド数学の世界からも、影響を、受けたり、与えたりしている。
ゼロは、無であるという、発見である。

さて、ヴェーダーンタ哲学の、一人を、見ると、非常に、仏教に似た、記述がある。
ドラヴィダによると、個我は、最高我と同じ種類である。
あたかも、火から花火が出るように、最高我から、つまり、ブラフマン、主宰神から、分かれて、身体、感官などの、密林に進入した。

それは、国王の元から、連れ去られて、猟師の子として、育てられた王子である。それが、自己の、本性である、王子という、意識を取り戻せば、王の元に、戻って、王子となるというもの。

諸々の個我は、親に従うべき、主宰神に背いて、存在しているゆえに、生死輪廻の、苦しみを受けるが、覚醒して、主宰神を信仰するならば、そのまま、主宰神の恩寵のうちに、存在するというもの。

人間本来、仏性を持つものである、などという、思想は、そこからも、伺える。
更に、すべては、仏の姿の、変化であるというもの。

勿論、仏教からも、彼らに影響を与えた。

一つは、ヨーガ・ヴァーシシタである。
ラーマヤナに、基づいた書であるが、世界は、神の意思によって、動くものではない。必然に支配されている。
それは、実は、意に基づくものである。
世俗の、生活から離れるべきではないと、主張する。
伝承説や、布施、寺院の儀礼によってではなく、自分自身を証することによって、解脱するというものである。

次に、いよいよ、密教というものが、起こる背景と、それを、見ることにする。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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