2009年07月07日

神仏は妄想である 236

観音経から、観音様という、実に、身勝手な存在を作り出す、人間の想像力は、凄いと、思う。

真実、観音様に、助けられたと、信じる人もいる。
勿論、助けてもらえなかった人の方が、圧倒的に多い。

妄想を心の、より所とする、時代は、終わったし、妄想の産物で、安心する、時代精神も、終わった。

子供時代に、サンタクロースを信じて、楽しんだ時代から、大人になり、それが、親の心遣いだったと知る。そして、大きな夢を、与えてくれた、親に感謝する。
そして、今度は、自分も、子を持つと、親と同じように、子に、サンタクロースを演じる。

サンタクロースっているの、と、親が問われると、いるよ、と、答える。
いずれは、そんなモノは、いないと、知る時がくる。

遅かれ、早かれである。そうして、子供は、成長する。
想像力を、高めることは、創造力の、原動力にもなる。
そういう時期が、必要であり、あって、よいのである。

いい年をした、大人が、観音様云々ではないだろう。
また、観音様を利用した、説教を聞かなくても、道徳教育は、十分に出来る。
進化倫理学の、ところを、再度、読んでもらいたい。

あらゆる、宗教的妄想の産物は、必要ないのであり、釈迦仏陀も、それを、最も、嫌った。

我の、吐く息、吸う息を、知れ。
呼吸を整えることによって、心を整えるのである。
心は、呼吸に表される。

今、何故、悲しむのか、怒るのか、嘆くのか・・・
その、心を様を、しかと、見つめよ。

釈迦仏陀の、行は、ただただ、内省であった。

相手に対する、感情が、起こる、心というものを、見つめよ、である。
それは、相手に怒るのではなく、我が心の、迷いを、相手に投影して、怒りを表している。本来は、その怒りの元は、我が心にある。

兎に角、冷静に、我が心を、見つめ続けること。

それを、日本では、すべて、所作として、残した。
語りではなく、所作の中に、それを、隠した。

立ち居振る舞いの、所作に、釈迦仏陀という、心のあり方を、見つめる方法を、持ったのである。ゆえに、すべての、行に、道と、名づけた。
武道も、芸道も、すべて、道という上にあると。

その道の先には、かむながらの道がある。
漢字で書けば、唯神道である。
ただ、かみの、みちである。

言霊にすると、
かアむンなアがアのオみイちイ
である。

それは、化け物になる道ではなく、人間の道である。

ちなみに、神という観念は、欧米の、インドの、中国の、それぞれ違うものである。

日本には、カムの感覚であり、観念は無い。

命、みこと、とは、人間のことであり、優れた人間を、命、尊と、奉るのである。
日本の神とは、人間のことである。

ある、病気治しの、新興宗教では、仏界を超え、神界を超えて、ついに、素の大神の居場所に、直結する、道が開けたと、喧伝する。
仏界も、神会も、彼の観念である。

法華経で言えば、仏の下に、神の世界がある。
仏が、上である。

それも、観念である。

そんなものは、無い。
あるのは、次元の違いである。

勿論、次元の違いがあるというのも、観念である。

次元の違いと、言葉にすると、解った、気になるから、不思議である。
次元の違いなど、知る術も無い。

さて、最後は、この、法華経の最後は、陀羅尼というものを、見る。
第二十六である。

サンスクリット語をそのままにした、呪文である。
アニ・マニ・マネ・ママネ・シレ・シャリテ・シャミャ・シャビタイ・センテイ・センテ
というように、その、音のままである。
総持、そうじ、と漢訳された。

解説は、二人の菩薩、薬王・勇施菩薩、二人の天王、毘沙門天・持国天、十羅殺女、鬼子母神が、法華経を説く者、法華経を受持する者、法華経を始業する者を、守護することを、誓うとある。

特に、鬼子母神と、その子らは、自分たちに、従わない者、つまり、法華経を邪魔する者には、頭が七つに割れ、あたかも、父母を殺すような、罪を得ることになると、脅す。

そして、釈尊、つまり、仏陀は、法華経の行者を守護する、功徳は、さらに大きいと、伝え、羅殺女を、励ましたとある。

呪文は、バラモンの、得意技である。
釈迦仏陀が、最も、嫌った、呪文である。
どうして、ここにきて、釈迦仏陀が、呪文を奨励するのか。

日蓮系の行者は、これを、霊祓いに、利用する。
霊に憑かれたと、思い込んだ者に、この、陀羅尼を唱えて、鎮めるというもの。

見世物としては、面白い。
また、行者の得意とするところである。
つまり、傲慢不遜である。

密教系と、日蓮宗系が、多く、そのようなことをするのは、バラモンの流れである。

毘沙門天や、持国天などは、インド魔界の、神のうちにある。

冗談ではない。
魔界のモノを利用して、猿芝居を演ずるということになる。

勿論、彼らは、それを、知らない。知る術も無い。信じるからである。

インド思想史を、俯瞰した通り、仏典の編纂の様子も、理解出来た。

更に、インド思想史を、見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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