2009年07月06日

神仏は妄想である 235

観世音菩薩普門品第二十五

観世音と訳したのは、クマラジューである。
観自在と訳したのは、玄奘三蔵法師である。

観音様といえば、知らない人がいないほど、有名である。

観音はインドのバラモン教やヒンドゥー教の神々を次々に仏教の内に取り込み、仏教の教化に役立てる役割を演じた・・・
奈良康明

観音信仰は、中国から、日本にかけて、大きな流れとして、現世利益、幸福追求の信仰を占める。

駒澤大学教授 吉津氏は、
教学中心の仏教観からだけでは現世に生きる、人生の支えになる実践はでてこない。
と言う。

つまり、お化けの様な、化け物が必要だということである。

有名なお経の、内容は、無尽意菩薩が、観世音菩薩の、名前の由来を尋ねるところからはじまる。

仏は、
多くの衆生が苦しんでいる。彼らが観世音菩薩の存在を知り、一心に観世音の名前を唱えれば、観音は、ただちに、あらゆる手段を尽くして、苦悩から、解脱させてくれる。だから、その菩薩の称名を得たのだ、と、答える。

更に、観音の力は、火災、水害、海難事故、殺害、悪鬼、捕縛、盗難、淫怒痴の苦しみ、子産みの願望に際して、観音を供養し、名前を称えれば、必ず願いが成就し、災害から、免れるというのである。

釈迦仏陀が、もっとも、嫌った行為である。

自分を誰かに預けるという、行為を、釈迦仏陀は、嫌った。
しかし、法華経になると、堂々と、観音に頼れという。

観音は、三十三の化身をもって、教化するというのである。
仏になったり、魔物の、帝釈天、バラモン、夜叉、比丘、比丘尼、女性などなどである。

兎に角、ありがたいのである。
鎌倉時代ならば、理解するが、現代では、お話である。

ドラエモンや、アンパンマンと、変わらない。

勿論、信じる者は、救われるのだろうが、あまりにも、お粗末である。

ちなみに、私も、観音経は、唱える。
ゴロがいい。

相手が、仏教徒の場合は、とても、喜ぶ。
その程度である。

マジに、観音様などを、信じたら、本当の釈迦仏陀の、仏教、つまり、仏の教えではなくなる。

ここで、先の、吉津教授の教えを、みる。
法華経の教えのポイントは一乗と方便にある。教学的には一乗真実三乗方便を天台や華厳が主張し、三乗真実一乗方便を唯識仏教が説くともいう。私は法華経の原意は一乗と方便が対立するものではないと考える。二乗や三乗の教え、あるいは人天乗の卑近な教えであってもすべて一乗真実への方便として位置付けられる。

上記の意味は、分からなくても、いい。
生きるために、必要のない知識である。

彼らは、食うために、それらを調べて覚え、学生に教える。
ただ、それだけである。
それ以外の意味は無い。

相手のことを顧みず、自己の不満から生きる意欲まで無くして自殺や犯罪に走る事例の多い現代の状況の中で、相手の身になって考える、発言する、そして行動することが求められている。そこでは、この応現も学ぶべきである。
吉津

つまり、観音のように、身を変じて、相手の身になって、考えることなどと、説教する。

観音を持ち出さずとも、そんな説教は、いくらでも、言える。

ここに、宗教学者や、宗教家、更に、宗教の信者、太鼓もちの詭弁がある。

その本人が、自己の不満から、観音経を持ち出して、腹いせのような、説教をしているのである。

簡単に、自己の不満から、自殺をして、犯罪に走るという、その、根性が分からない。自分を、何様だと、思っているのか。

自殺や、犯罪は、そんな簡単なものではない。

どんなに、小難しい言葉を、覚えても、この通り、どうしようもないことを、言って、終わる。

理想的詭弁である。

観音経も、そうである。理想的詭弁で、人を惑わす。

他を理解することが、他を説得する前提である。観音様の応現の姿勢に通ずる。人間関係の根底にこれを活かせば、私たちお互いが潤滑油になり、少しは住みやすい世の中になるのではなかろうか。
吉津

どうであろう。この程度の、認識である。

この人にとっては、世の中が、住みやすいかどうかなど、関係ないのである。
痛くも、痒くもない。
大学教授で、食べて行ければいいのである。
そして、宗教家というモノも、然り。

観音様が、憑いたという、自称霊能者などがいるが、無いモノが、憑くわけが無い。
笑う。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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