2009年07月03日

神仏は妄想である 232

宗教は、迷いである。
いかに、古典である、経典を解釈しようが、迷いである。その成立過程を、俯瞰してみるだけで、十分に、創作であることが、解るのである。

更に、様々な考え方の一つであり、その実践も、死ぬまで、暇つぶしである。

私は、宗教的行為の、実践を否定しない。
そのようにしか、生きられない人もいるからである。

しかし、それを、人に強要したり、人に説くということに、誤りがある。

何故、教祖や、開祖は、己一人で、実践し、己一人で、それを捧持して、よしとしないのか。

単なる、顕示欲の強い霊が、現れて、我は、天の将軍なりとか、我は、観音菩薩とかと、言うことを、即座に信ずるというのも、アホらしいが、更に、真っ当に、それに対処して、その言うことを、人に伝える。

これは、実は、姿を変えた、自己顕示欲である。

更には、宗教に似つかわしくない、野望である。
それは、実に、見事な人間のみに、備わった、精神的欲望である。

支配欲という。
神仏を利用して、我を拝ませ、我に、従わせるという、支配欲。

空海は、天皇を我が支配下に置くべき、加持祈祷を持って、病気治しなどをした。
治るも、治らないも、その時代は、知識も、医学の方法もない。

信じさせれば、足りる。
そして、未だに、信じさせれば足りるという方法をもって、信者を獲得する。

宗教は、伝統に成り得ることは、決して無い。

すてべは、伝統が先である。
伝統から、宗教が、後についてくるという場合は、ある。


宗教による、教学、教理、という教えを学んで、少しばかり、賢くなったと思うのは、馬鹿の証拠である。

小難しい言葉を、知って、賢くなったと、思う、学問お宅に、似る。

神や仏は、妄想であるから、いくら、想像力を逞しくして、妄想しても、よい。
限りなく、妄想を膨らませて、蜃気楼を作る。
更に、馬鹿馬鹿しいのは、救いという、曖昧な、言葉と、その定義である。

一体、何から、救われるのか。

人間は、大脳化によって、他の動物以上に進化した。
この、大脳化が、宗教という妄想を、編み出したといえる。
そして、思想、信条もである。
更に、主義というものも、である。

主義というものによらなければ、人間は、生きられなくなった。
実は、嘘である。

人間は、何によらずとも、生きられる。

私という、妄想によってのみでも、生きられるのである。

神によって、我は有るというものも、仏の世界に、我は有るというものも、すべて、妄想である。

人間は、大脳化によって、絶対孤独というものを、得た。
それに耐えられないゆえである。

大脳化によって、絶対孤独に耐えられないがゆえに、妄想を、編み出すものである。

どんなに、気を許す、相手、今流に言えば、愛しても、人は、孤独から、開放されないのである。

その孤独は、絶対なのである。

たった、一人でいるということに、耐えられない。が、ゆえに、宗教は、発展生成してきた。

私は言う。
神仏は妄想であり、人は、絶対孤独である。

死ぬことで、その孤独を開放することも、開放されることもない。
輪廻転生、それも、孤独である。

日本、神話の独り神なり、というのは、正しい。
独り神とは、そのまま、人間のことである。

独りなのである。
それを、教える宗教はない。
つまり、あなたの、神や仏は、私の神や仏と、違うということである。

百人百様の、神や仏が在る。

それに、気づくとき、人は、その孤独に、戦慄する。
それでも、孤独なのかと。

私は言う。
だから、人は、家族、兄弟、友人、知人、更に、誰かと、一緒の、会合に、付属したいと。
残念ながら、それは、嘘である。

どこにも、所属できないのが、人間の、常であり、定めである。

私は、絶対孤独で、私以外の、人の、思いというものを、想像する意外に無い。
それを、私は、救いという。

人の思いを、想像する、少しは、理解する、もう少し、考えるという、それが、宗教でいうところの、最後の、救いである。

要するに、宗教という、妄想はなくて、よい。
伝統があれば、人は、生きられるのである。
そして、伝統の別名は、神話である。
神話は、創作であるという、純然たる証拠がある。

ものの、言われというものを、伝統と言う。
言い伝えである。
民族という、共同幻想は、そこにあり、それで、人は、十分に生きられる。

神話が、崩壊してしまうと、人間は、狂う。

仏陀の修行は、私の神話というものを、築くためのものであった。
仏陀は、見事に、仏という、オリジナルを築いたのである。

要するに、孤独に耐えられたのである。
自己同一性というものを、仏陀は、試みて、成功したのである。

絶対矛盾の自己同一ではない。
こんな、言葉遊びをするのは、禅のアホどもである。

脳が、矛盾したら、人間は、生きられない。
馬鹿馬鹿しいのも、程が有る。

禅の高僧が言う。
朝から、晩まで、いや、24時間、禅なのですと。
アホらし。

それで、糞小便垂れ流して、作ることも、採ることも、捕ることもせず、のうのうとして、信者から、大枚を得て、言葉遊びをする。

クリエイティブなことは、何一つ無い。
死んだ方が、増しだ。

こういうのを、糞でも、食らえというのである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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