2009年07月02日

神仏は妄想である 231

分別功徳品第十七を、見ている。

これは、われわれが心の底から仏の無量寿を信解 しんげ することができたとき、達しえられる境地を説いてあるのです。仏がいつも霊鷲山におられるのを見ることができるというのは、自分の現在住んでいる所にいつも仏さまがいらっしゃることを確信するようになるという意味です。そして、自分の周囲ではいつも仏の教えが説かれているのだということを、如実に感じ取ることができるのです。
庭野日敬

そのように思いなさい。までは、解る。

また、娑婆世界がそのような美しい国土に見えるということは、信仰がそこまで達すれば、娑婆世界がそのままで浄土となるという意味です。
庭野

これは、全く、全体主義である。
更に、為政者に、都合の良い教えである。

どんなに、支配されても、信仰が深ければ、この世が浄土に見えるという。

ミャンマー・ビルマの独裁政権の中で、人々は、篤い信仰を持つ。持たざるをえない。
しかし、それは、信仰というより、篤い祈りは、逃避である。現実逃避なのである。

如何ともし難い、政治に、無力であることを、諦めて、信仰によって、幻想を抱くしかない。

悪徳政治家が、宗教を推奨するのは、目に見えてる。

生かさず殺さず、民衆は、宗教の、妄想に浸っていれば、足りるのである。

現実の世界に、目覚めてもらっては、困る。

実に、馬鹿馬鹿しい。

更に、庭野は、続ける。

仏の教えによって、心がつねに法悦に満たされておれば、この現実の世界が楽しくて楽しくて仕方のない所に一変するのです。どこを見ても美しく、だれを見ても菩薩に見えるのです。すなわち、その人の表面のみにくさを突き抜けた奥の奥にある平等の仏性を見ることができるのです。
庭野

全く、嘘である。

平等の仏性など、ありはしない。
これは、最澄の、その教えを受けた、中国の仏教思想である。

誰もが、仏性を有するという教えである。
一見、耳さわりがいいが、こんな馬鹿なことはない。

これも、支配者には、もってこいの思想である。

どんなに、現実が、哀れで、惨めでも、信仰により、楽しくて楽しくてならないと、言わせるとは、何という、傲慢な考え方であろうか。

だから、共産主義も、宗教と同じく、信仰させるのである。
主義というものに。
二つは、同じ根から出るものである。

宗教は、アヘンであるが、主義もまた、アヘンである。

それによって、どれだけの人の命が、失われたか。

ホロコースト、ユダヤ人大量虐殺を言うならば、何故、共産主義と、宗教による、大量虐殺を言わないのか。

そこに、目くらましがある。

この人は、法華経を説いているつもりだが、大変重大な、幻想と、妄想を説いているとは、知らない。

更に、経典を訳して
如来の滅後に、もしこの教えを聞いて、疑ったりそしったりすることなく、素直にありがたいという心を起こしたならば、もはやそれで真実の信仰を得たものと知るがよろしい。

ということだ。
呆れて、物も言えない。

疑うな、信ぜよ。
この蒙昧により、どれほど、多くの人が、迷い、その死後も、迷い続けているか、知れない。

それで、この人は、仏になったのだろうか。
今、一体、どこにいるのか。

立正佼成会という、宗教団体を立ち上げて、成功者と呼ばれた。
信じられないのである。

勿論、法華経を信奉する、団体は、多い。
霊友会や、創価学会、その他、諸々。

法華経は、悪魔に至る道である。

我を失い。仏という、妄想に身を委ねるとは、人間として、完全に誤っている。

人間は、人間であり、死後も、人間の霊である。
決して、仏という、化け物には、ならない。

釈迦仏陀は、人間であった。
抑うつ症の、欲望希薄、神経過敏の人間だった。

だから、静かに生きるべく、心を見つめて、生きた。
釈迦仏陀は、外の世界を説いたのではない。
内の世界を見つめたのである。

それを、内道という。
内道、心のあり方である。
何か、超越した化け物を信じろとは、決して、言わなかった。
法、つまり、物事の有り様を、頼りに、わが身を頼めである。

物事の有り様を、真実とか、真理というのは、勝手である。
信じるべきは、我が心である。
その心には、仏性という、妄想があるのではない。
その心には、人間性というものがあるのである。

頼りは、人間性である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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