2009年06月07日

性について108

種々の人間関係の色情的性格を示す外的証拠は文化と時代によってきわめて多様であり、愛の表現ないし描写に対して予想される同時代人の反応こそもっとも重視されねばならない。アッティカの古典文学作品の場合、二人の男性の熱い関係の好色な実態を詳述する必要はなかった。それは恋愛関係であることは自明のこととされていたからである。
ボズウェル

古代ギリシャ人は、フィリアー、エロース、アガペーの、呼称で、感情のカテゴリーをたくみに、言い分けた。
しかし、それは、誤りだという。
これらの、三つの用法には、重複さと、曖昧さが、付きまとうのである。
フィレオーという動詞は、情熱のかめらもない愛を示すこともあれば、焼け付くようなキスを指すこともある。
どちらの意味に、とるかは、文脈と慎重な、推論によって、計られる。

ラテン語の、場合は、アミークス「友人」と、アマーンス「恋する人」は、同じ動詞、アモー「愛する」からの、派生語であり、多くの場合、互換可能であるという。

要するに、古代社会は、現代ほど、友情とか、ロマンスなど、その境界を認識していなかったといえる。

古代社会においては同性愛行動を奇妙だとか異常だと考える者はほとんどいなかったから、同性愛の病因に関する所見もめったに見られないわけだ。
ボズウェル

古代や、中世の、同性の友人と、恋人を、区別する確かなものを、探しても、せん無いことであると、思われるのだ。

事実、どの古典文学にも同性愛に対する説明は見られず、誰もが同性愛をどこでもあるまったく正常なことと考えていたことは明らかなのだ。人間行動のべての側面を嘲笑したアリトファネスは、アテナイの名立たるゲイたちをもしばしばからかったが、それにもかかわらず同性愛の欲望を異性愛の欲望や、食べたり飲んだり笑ったりすることと同じく「
自然の必要」とみなしていた。
クセノフォンが同性愛は「人間の自然」の一部であると述べたとき、彼はその時代の大半のギリシャ人の意見を代弁したのである。愛に関するプラトンの議論はすべて誰もが同性愛に魅力を感じることを前提としており、そうした議論のいくつかには異性愛がいくぶん低級な好みとして見えている。また数世紀後には、フィロストラトスが、彼の愛情に答えようとしない若者は「自然の命令に逆らっているのだ」と嘆いているのである。
ボズウェル

そろそろ、古代社会の、結論を言えば、結果は、同性愛か、異性愛という、カテゴリーそのものが、重要だと、考えた者、社会は、無かったといって、よい。

それが、何故、ある社会が、他の社会と違い、人種や、信仰、性的好み、その他の、個人的特質を基準として、不公平な区別を設けたのか・・・
更には、差別という、意識を持つに至るのか。

人間が、その精神が、複雑になったからなのか・・・

同性愛行動は異文化の接触を通じて「学び伝えられ」た、という一般通念があって、これが今でも幅をきかせている。早くも紀元前五世紀にヘロドトスが、ペルシャ人は同性愛行動をギリシャ人から学んだと主張し、この見解は七百年ほどののちのアテナイオスにもなお知られていたが、クイントゥス・クルティウス・ルフス「紀元後一世紀」は明らかにこれを信じず、同性愛関係はペルシャ人に知られていないと主張している。
同性愛の伝習という観念は中世を通じてとぎれることなく受け継がれた。十字軍の戦士たちは同性愛を中東からヨーロッパへ持ち帰ったと考えられた。
シャティヨンのワルターは、若者たちは都会で同性愛を学んでいる、と主張したし、ウェールズのギラルドゥスは、イギリス人はそれをノルマン人から学び取り、さかのぼって、ノルマン人はフランス人から取り入れた、と考えたのである。
ボズウェル

それでは、いつから、同性愛というものが、差別の対象、不寛容の対象とされたのか。

それは、中世の異端思想からである。

また、ユダヤ人は、旧約聖書により、同性愛は、異端者のもの、という認識があり、旧約の神は、それを嫌った。ゆえに、同性愛は、罪であるとの、認識に立った。

罪という、概念は、その多くは、宗教から、はじまる。

一気に、現在の宗教から、それを俯瞰すると、仏教は、同性愛を話題にもしない。
ヒンドゥー教は、同性愛を一般的に受け入れている。
イスラム教とキリスト教は、同性愛の項目自体がない。つまり、認めていない。
ユダヤ教は、ゲイは認めないが、この頃では、認めるとする派閥も、出ている。

だが、時代は、それを、無視して進むことが、困難になってきているのである。

この、テーマの最初に取り上げた、例の通り、現実問題として、切実に、迫ってきたのである。

女性誌に、取り上げはじめられた、男性ヌードが、次には、男性誌までにも、席巻しはじめたのである。

新しい時代は、確実に、訪れる。
そして、そこには、時代性と、時代精神というものによって、貫かれる。

「プレイボーイ」たちは、ホモセクシャルとはっきり向きあうことをおそれているかのようだ。もしかしたら、そこには鏡があって、自分自身が映るからだろうか。
男らしさを強調し、男の世界を特権化する男性誌こそ、最もホモセクシャルに敏感である。それがないと男と女の境界がはっきりしなくなるからである。
海野弘  ホモセクシャルの世界史

多くは、母親が、息子によって、告白されるケースが、多いようである。
このテーマの、最初の例も、息子によって、告白されたケースである。

20年前ほど、ファジー、曖昧さという言葉が、流行したことがある。
男女の差に、関しても、そうだった。

男性化する女性、女性化する男性という。
あらゆる意味で、である。

それから、ジェンダーという言葉である。
性差である。

性差を無くすという、実に、馬鹿げた、考え方を、取り入れようとする、人たちが、現れた。

男女の、性的役割の、混乱も、甚だしい。

一つの例である。

通常の、女好きである、男が、その場の、雰囲気に飲み込まれて、男と、セックスをしたという。
それも、受身である。
彼は、ゲイでも、ホモでもないのである。

それ以降は、関係を持たないと言うが、いつまた、その時が来るかは、解らない。

性向は、生き方になる。
そして、性的嗜好も、生き方に、大きな影響を与える。

人の無意識の、世界は、無限大である。

性については、避けられない問題となるのである。



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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