2009年06月05日

性について 105

西側諸国の現代人は大半が、いやゲイ・ピープルでさえ多数が、ゲイの恋愛は、「しばしば理想化される」男女のそれよりも短絡的で肉体的だと考える傾向にある。これが本当かどうかという問題は社会の反感という変数との関連で考察しなければならない。敵対的な環境のなかでは永続的な関係の一方の当事者とならぬことがゲイの人間にとつて大変有利なことは明らかである。
ボズウェル

更に
同性愛が抑圧されているところでは、同性同士の関係が親密であればあるほど、また長続きすればするほどいっそう疑惑を招きかねない。抜け目のないゲイ・ピープルはうまく立ち回るかもしれないが、抑圧に対するもっとも効果的な防衛策は、注意を引きつけもせず疑惑を呼び覚ますこともない束の間のひそやかな関係を図ることにあろう。

だが、ゲイ・ピープルと、その愛が、公衆の賛美の的となるところでは、防衛する必要はない。

もっと、寛容な社会では、防衛のための、特徴的行動は、発達しないのである。

多くの、ギリシャ人が、ゲイの愛を、永続的、純粋、かつ、真に精神的でありうる、エロティシズムの、唯一の形態として、描いている。

アッティカの立法者ソロンは、同性愛のエロティシズムを、奴隷には高尚過ぎるとして、彼らには、それを、禁じた。

ヘレニズム時代の、物語の理想化された世界では、ゲイ・ピープルが、ゲイでない友人たちの、情熱に劣らず、持続的、あるいは、精神的な情熱を抱く不幸な、恋人たちとして、描かれて、異彩を放った。

ローマでは、亡き恋人アンティノオスに対する、ハドリアヌス皇帝の、尽きることのない、愛情が、恋の忠誠の、もっとも、よく知られた、美的表現の一つとなった。

イスラム教の、スーフィー派文学では、同性愛のエロティシズムが、神と人間の霊的関係の、重要な隠喩表現として、用いられた。

ペルシャの詩や、小説でも、精神的な愛の、実例として、ゲイの関係が取り上げられる、場面が多かった。

古代中国では、ゲイの愛情を示す、もっとも、ポピュラーな文学表現として、「断袖」という言葉がある。
前漢末期の皇帝が、謁見を賜るように請われて、自分の衣の袖を敷いて、寝入っていた、寵童薫賢を起こさぬように、袖を、断ち切ったという。

原始民族のあいだでさえ、精神性、あるいは、神秘性と、同性愛とは、何らかの、つながりがあったと、推測されている。

上記から、同性愛感情と、道徳的だらしなさが、関連付けられるようになったのは、比較的、最近のことである。

歴史家は、古代の同性愛と現代の同性愛の相違を誇張する傾向という、もっと誘惑的でやはり事実を歪める危険にもさらされるのである。
ボズウェル

一部の学者の間では、古代の同性愛と、現代の同性愛とは、違うと、主張する者もいる。
つまり、古代の、関係は、常に、異なる年齢、年長者と少年という関係などから、現代の同性愛とは、根本的に違うと、言うのである。

ただちに考えてみなければならないことだが、男と少女の異性愛関係は年齢の相違のためにいささかでも異性愛らしくなるであろうか。異性愛と同性愛の区別で基本的なことは、多種多様な性的感心をすべてーーー男と男か、男と女か、といったーーー性関係の諸カテゴリーに分類することであろう。「同性愛」という言葉に少しでも意味があるなら、男と少年の関係も男と男または少年と少年の関係と同じくそれに含まれることは明白である。
ボズウェル

古代の、成人男性と、少年の関係は、多分に、理想化された、文化的習慣に、帰結するかもしれない。

更に、その時代の、女という存在の、地位の問題もある。

女は、男の、付属物であるとした、古代の、女性蔑視がある。
特に、旧約聖書では、家畜と同じ程度の、モノとしての、認識である。

親族社会、つまり、民族社会とも、言い換える事が出来るが、男にとって、離婚は、たやすいことだが、女には、その自由がない。
更に、女は、夫以外の、男と関係を持つと、死刑である。

自由な身分の、女でも、たった一度の、過ちのために、破滅させられた、時代がある。

だが、男は、一夫多妻でよく、妾を何人持っても、いいのである。

同性愛問題が、女性の地位と、関連してくるという、問題である。

現代でも、イスラム社会の、イスラム法による、国々では、結婚以外の、女性の、性的関係は、死に、結びつく。
悲劇なのは、親に殺される場合もある。

だが、そのイスラムも、キリスト教も、ユダヤ教も、同性愛を、忌み嫌うのである。

その反面、逃げ道は、数多くあるという、不思議である。

再度、話しを戻し、
性によって作られる諸関係を組織原理とする文化での性的逸脱は、宗教が支配する社会での異端、あるいは政治によって組織される共同体での反体制と酷似している。親族社会のゲイ・ピープルは、カトリック教のヨーロッパの異端者や、近頃では西欧民主主義の社会主義者と同様、危険人物とみなされる。このような場合はいずれも、異説ないし逸脱は最初は反逆罪のように見えるかもしれない。時間と親交と教育によってのみ、無害な逸脱を許すゆとりが得られ、また変則的行動の形態を、現実に社会秩序を破壊するものとそうでないものとに区別することが、多数派にも、できるようになるのである。
ボズウェル

上記を、ボスウェルは、田舎風社会と言う。

それでは、都会風社会におけるものは、と言うと、
都会風社会の、性道徳は、拡大家族内での合法的位置の、確立という以外の目的に、向けられるという。

高度な都会風の社会では、同性愛は、容認される。更に、理想化される場合も、ある。

最悪の場合でも、同性愛は、文明と、余暇の無害な、副産物と、みなされる。
更に、都会に、害を与えるどころか、愛の追求に、関連する、芸術、商業、租税を通して、おそらくは、都会を豊かなものにすると、考えられると、述べている。

大半のアテナイ人がその民主主義を一対のゲイの恋人たちによって樹立されたものと考え、またゲイの性愛にもっとも好意的であったことで知られる西欧社会―――アテナイとローマーーーが都会風民主主義ともっとも関係の深い社会であったことは、おそらくたんなる偶然ではないのである。
ボズウェル




posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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