2009年06月04日

性について 104

西欧史のどの時代を取ってもこの20世紀の前半におけるほどゲイ・ピープルが広汎で激しい不寛容の犠牲となったとは考えられないし、現代の西欧諸国の生きるゲイ・ピープルを観察して同性愛に関する結論をひきだそうとしても、ナチス支配下のドイツにおけるユダヤ人あるいは南北戦争以前のアメリカ南部諸州における黒人に関して出された結論ほど正確で客観的な一般論を生み出すことは期待できない。ごく最近まで、ゲイ・ピープルで自分の素性を公けにする気になった者はほんの一握りにすぎないし、そのようなひとびとにしても、当然予期されるひとびとの反発を考えると、典型的なゲイではなかったにちがいない。
キリスト教と同性愛 ジョン・ボズウェル

これは、序章である。
問題は、何かということから、はじまるのである。

巷で、言われる、ホモとか、おかま、ゲイ、など、実に曖昧で、差別的発言であるということが、理解できる。

同性愛とは、何か。
その民族、文化に、おける、同性愛というもの、とは、何かである。

伝統や、風習として、行われる、同性愛的行為も、同性愛というのか。
友情を深くして、精神的に、結びついたものも、同性愛と、言うのか。

様々な、疑問が湧くのである。

私は、すべての、人間に、同性愛性というものが、存在すると、考えている。
そして、異性愛性というものも、である。

更に、ゲイという場合は、ゲイという、同性愛だけではなく、ゲイセックスという、同性愛性交の有無を問う。

日本の武士道における、師弟のあり方、君主との、あり方も、また、同僚に対する、あり方も、同性愛を伴うものである。

明確に、同性愛であるという、線引きをすることは、至難の業である。

更に、もっと、追求すると、異性愛を、実現できない者が、同性愛行為に、救いを見出すという、実例もある。

同性愛ではないが、同性愛性交を行うという、者もいるのである。

それでは、定義を、どこに置くのかということが、問題になる。

しかし、その前に、
したがって、現代のまったく典型からはずれているかもしれないサンプルからひきだされたゲイ・ピープルの観念を歴史データに投影することは極度に慎重でなければならない。
ボズウェル
ということになる。

たとえばゲイの男たちはあまり男性的ではなく、ゲイの女たちはあまり女性的ではないという観念が、経験による知識というより、同性愛に対する反感の結果であることはほぼ疑いない。
ボズウェル

更に、分析すると、
ゲイ・ピープルに対して寛容でない文化には、男性はその文化が女性的とみなすものによってのみーーーまたは女性は文化的に規定された男らしさによってのみーーー性的な刺激を受けるという一般の期待があるため、他の男性の興味を惹きたい男性は「女性的」になり、女性に性的な関心のある女性は「男性的」になる、という憶測がおのずと生じてくる。
ボズウェル
ということになる。

わずかの、例に捉われて、それを標準としがちな公衆の心にある、紋切り型のイメージは、そんな一部の例によって、強められると、言う。

だが、寛容な、古代民族にあっては、他の男を愛する男は、異性愛の男より、男性的になると、考えられたが、これは、男を愛する男は、男たちに見習って、彼らに似ようと、努めるという、論理的な理論に基づいていた。

これに対しては、説得力に欠けると、ボズウェルは、言う。

プラトンの、饗宴から見ると、
男を愛し男と寝たり抱き合ったりすることを喜ぶ男は、その人自身、生まれつきことに男らしいのだから、子供や若者のなかでもっとも美しいといえます。彼らのことを恥知らずだという者がいまが、それは誤りです。というのは、彼らがそのようなことをするのは、破廉恥のせいではなく、自分と似たものを追い求める勇気と男らしさと男伊達があるからです。これには大きな証拠があります。つまり、長じてから政治に向いていることがわかるのは、そういう男たちだけなのです。

これは、現代の偏見とは、逆の、最も、けたたましい例だと、ボズウェルは、指摘する。

性愛のカテゴリーとしての、同性愛と、判断する場合もあり、文化的、伝統的、更に、民族的な、様々な、同性愛の、考え方があるということだ。

人間の、欲望を分析すれば、恐ろしいほど、複雑奇怪になってくる。
つまり、一概に、定義や、決めつけなど出来ないということである。

例えば、全く、女に興味を示さなかった男が、精神分析によって、何故、女に、興味を示さなかったのかということが、解明されて、同性愛傾向から、抜けるという、場合もある。

更には、異性愛も、同性愛も、受け入れない、全く、別の、カテゴリーの者もいるのである。

極端な例だと、性的に、何ら、欲望を感じる事が無いという、者である。

それも、欲望が善だとすると、異常である。

また、プラトンより、数世紀後に、生じた、プラトニック・ラブという、概念の起源は、ゲイの関係には、セックスが欠けているべきだとする、プラトンの確信ではなく、同性同士の愛のみが、セックスを超越できるものだという、プラトンの、信念にあった。

様々な、民族の、同性愛の、証を俯瞰すると、実に興味深いことが、解る。

ゲイ・ピープルに対する不寛容の歴史を研究する際に付きまとうもろもろの困難が、たんに現代の神話や紋切り型のイメージの時代錯誤的な投射を避けるということだけで解決できるなら、事ははるかに容易であろう。残念ながら歴史家は、古代の同性愛と現代の同性愛を誇張する傾向という、もっと誘惑的でやはり事実を歪める危険にもさらされるのである。
ボズウェル



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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