2009年06月02日

性について 102

先ごろ、イギリス議会が、同性愛差別禁止法を、通過させた。

すると、ローマ法王は、即座に声明を出した。
同性愛は、自然に背く行為であり、認められない、と。

カトリック教会が、一貫して、言い続けていることである。
同性愛は、自然に背く。堕胎は、自然に背く。マスターベーションは、自然に背く。

カトリック教会が言う、自然とは、何か。
しかし、カトリック教会は、それについては、沈黙する。
要するに、単純に自然観察をしてのことであり、実に浅はかな観察である。

そして、皮肉なことに、その単純な自然観察から、弱肉強食の自然界を、真似て、多くの他民族を、虐殺したのである。

大航海時代、カトリックは、布教を名目に、従わない民族を、皆殺しにしたのである。
その反省を、未だに、行っていない。

さて、
自然―不自然の対立のまったく別個の分類法は「理想的自然」と呼んでよいかもしれぬものにもとづいている。
ジョン
と、言う。

「理想的自然」の諸概念は「現実の自然」がもろもろの意味に類似し、かつその強い影響を受けているが、「自然」は「善」であるということを明らかな前提としている点で後者とは重大な相違がある。「理想的自然」が包含するのは森羅万象か人間の関わらぬ事物のみかという理解のほどはともかく、それはつねに「善」へと働きかけるものと信じられている。

これによれば、ある「自然」の物事が悲惨で苦痛を与える場合はあろうし、悪の形相を呈することさえあろうが、長いあいだにはーーーまたは、大きな尺度で見ればーーー結局はそのすべてが望ましく価値ある状態に落ち着くことを示しうる。

「自然」はおのれの力で悪を生み出すことができぬから、真に咎むべきもの、または邪悪なものはすべて「不自然」にちがいないというわけだ。「理想的自然」の諸概念は観察される現実世界によって大きく左右されはするが、結局は文化価値によって決定されるのである。このことは、とくに「不自然」という語について観察される。つまり、このような理想的自然体系のなかでは、「不自然な」という語は「悪い」とか「受け容れがたい」という意味の強い言い換えとなっている。

「理想的自然」に魅せられたひとびとにとってある行動が欠点を補うに足る美質をもたぬように見えるほどイデオロギーのうえで無縁であるか、または個人的にいとわしいならば、その行動は「不自然」のレッテルを貼られよう。

それは、そんな行動が「現実の」自然のなかでは決してなされないのか、しばしばなされるのか、あるいはなされるとすれば人間がなすのか、下等な動物がなすのか、ということには無関係である。なぜならそのようなひとびとは、「良き」自然はいかなる状況下にあっても、そのような行動を生み出すことができないと推測するであろうから。
ジョン
読みやすく、改行しています。

ここでも、皮肉なことに、理想的自然観を持つ人々が、宗教上の理由や、個人的な理由に基づいて、反対する、性行動を、不自然とみすなすことは、よくあること。
だが、驚きは、次だ。

理想的自然を意識的に排斥する人々が、そのくせ、そのような反対論に影響される程度の、甚だしいことである。
この、混乱は、宗教的確信と、個人的嫌悪の混乱と同様、ゲイ・ピープルに対する態度において、特に、多いのである。

同性愛は、不自然であるという、観念は、古代社会に広がった。
プラトンの、何気ない言葉に、端を発している。

だが、これは、理想的自然観が、現実的自然観に対して、勝利したからであると、ジョンは、言う。

特に、キリスト教台頭直後、数世紀にわたり、哲学諸派は、理想化された自然を、人倫の基準として、用いることで、西欧思想に、大きな影響を与えた。
共に、生殖に、無縁な性愛は、すべて、不自然であるという、観念を一般に広めたのである。

だが、一旦、それは、廃れたが、その後、13世紀になり、スコラ哲学によって、復興された。

それは、技術科学から、教義神学に至る、あらゆる分野の学問に、決定的な、そして、支配的な観念となった。

のちにはこの理想的自然観を根拠とする科学的、哲学的、さらには道徳的考察すらほぼ完全に信用を失ってしまい、大半の識者から見向きもされなくなっているが、「不自然」とか「自然に反する」という語句のもつ感情的な影響力は根強く残ったまま今日に至っている。
ジョン

ゲイ・ピープルは「冒涜的存在」であるという見解は近代科学の興隆より優に二千年以前にさかのぼり、かつ近代科学とはまったく無縁の発想にもとづいているにもかかわらず、多くのひとびとはなんの考えもなくこの古代からの偏見をおのれが科学的と思いこんでいる思考の枠組みに当て嵌め、それに伴うひどい矛盾に気づきもしない。

そして、同性愛の行動はーーー古代の哲学者によって理想化された「自然」ではなく現代の科学者がいうところのーーー「自然」を冒涜する、という結論に至るのである。
ジョン

不自然という、観念の、根強さは、ほとんど、それを捨て去っているにも、関わらず、現実に、そのような観念を吹き込む偏見の顕著な指標となっているのである。

そして、要するに、同性愛は、不自然であるという、論難は、科学的にも、道徳的にも、説得力があるとは、思われないと、ジョンは、結論づける。

「不自然」という語は敵意の収束点とはなりえようが、入り組んだ感情のみなもとをなしているとは夢にも考えられないのである。
ジョン

これは、何も、ゲイだけに言えることではない。
他の、多くの少数派に関しても、同じである。

難病、奇病を持つ人たち、障害を持つ人たち、更には、生まれによる差別なども、そうである。

更には、職業までも、視野に入るのである。



posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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