2009年05月28日

性について 98

G・ラットレー・ティラー「歴史におけるエロス」から。

人類の歴史は、性的基準として、非常に対照的な、二つの態度が、たえず相克を繰り返してきたという。

一つは、父権的態度。
西洋の中世、キリスト教社会や、日本の封建社会である。
その特徴は、
セックスに対する制限的な態度
女性の自由の制限
女性を劣等で罪深いとみる
幸福より純潔を高く評価する
政治的には権威主義
保守的、反革命的
調査、研究を信用しない
自発性への恐怖、禁止が強い
同性愛への深い恐怖
性差の誇張
禁欲主義、快楽への恐怖
父親宗教
である。

次には、母権的態度である。
セックスに対する許容的な態度
女性の自由
女性に高い地位を認める
純潔より幸福を評価する
政治的には民主主義的
進歩的、革命的
調査、研究を信用する
自発性、自己顕示
近親相姦への深い恐怖
性差の減少
快楽主義、快楽を歓迎する
母親宗教
である。

勿論、この、中間的時代もある。
西洋史から見れば、ケルト民族時代である。

日本も、仏教伝来以前は、母権的であった。

ただ、皮肉なことに、父権的社会では、男色を嫌うが、逆に、男色が、甦るという、こと、多々あり。

ユダヤ、キリスト教の聖典である、旧約聖書では、男色を、徹底的に、嫌い、それは、異民族、異教徒のものだと、排斥するが、禁止が、強ければ、強いほど、男色が、広く行われていたということである。

歴史が、男性宗教型になると、女性を低く評価する。
ユダヤ、キリスト教、イスラム教は、見ての通り。

仏教では、女性は、修行しても、救われない存在と、決定するという、徹底ぶりである。

ただ今の、歴史という時、この、男性の宗教をもとに成立した、父権社会が、記録されているのである。

それ以前の、歴史は、母権社会であるが、神話とされる場合が、多々あり。

要するに、古代社会は、母権社会であり、セックスの抑圧がなく、更に、快楽への、制限がないのである。

何故、父権社会になると、セックスが、タブー視されるのか・・・

セックスにより、男が女に、飲み込まれるという、恐怖からか。

そして、男色が、強い関心を呼ぶのである。
それを、嫌ってもである。

更に、父権的、父親宗教でさえ、神殿では、神官による、男色行為が、公然と、行われていたのである。
更に、売春行為もである。

実に、不可解である。

中世の西洋では、徹底的に、セックスを拒絶したが、日本の場合は、仏教社会で、男色に対しては、比較的、許容的だった。

結果、西洋では、男色に対する、恐怖心が高まり、日本の場合は、男色に対する、賛美が、高揚したのである。

何事にも、表と裏がある。

男色、嫌悪の裏には、男色の流行があり、というふうに、である。

現代では、男色の繁殖は、激しさを通り越して、ゲイを抜きにして、語れないこと、多数ある。

それでも、父権宗教主体の、社会では、男色を嫌悪し、更に、宗教的に、罪と定めている。

イスラム社会では、甚だしい場合は、死刑である。

再度、同性愛の、歴史を俯瞰しつつ、同性愛というものの、存在する意義と、価値、そして、人間が、逃れられないという、セックスの多様性を、見ることにする。

実際、セックスの多様性は、百人百様であり、それは、国家や、宗教に、支配されるものではないが、それさえも、支配しようとするのが、強い支配欲を持つ、為政者たちである。
勿論、宗教指導者といわれるものたちも、である。

何故、人の、性行為に、関与するのかを、探ってゆくと、必ず、支配欲というものが、見えてくる。そして、性とは、最も、原始的人間の、欲求であるという、事実である。

人間の、原始的欲求を支配することで、絶対的、権力の頂点に立とうとするのである。

人間の、基本的欲求を、本能と呼ぶが、その本能を支配するというのが、宗教と、政治の、キーポイントである。
つまり、本能と、主義、ドグマの戦いでもある。




posted by 天山 at 00:00| 性について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。