2009年05月24日

最後の沈黙を破る 24

新興宗教が、どんなに、多く流行っても、神社信仰が、廃れない。
日本の、良い伝統である。

新年の参拝も、一年に一度だけでも、神社にお参りするという、伝統は、美しい。

ただし、私は、あまり、関わらない。
私は、太陽を拝しているので、出掛けなくても、納得、満足している。

古来からの、信仰である、太陽崇敬である。

古神道で言えば、太陽崇敬は、当然である。

さて、北海道神宮を、批判する。

このところ、神宮の面前で、事故が多発している。
死者も出た。
しかし、神宮側では、何もしない。
つまり、清め祓いをしないのである。

信じられない。

門前も、門前である。
奥の鳥居の前である。
そこで、事故が多発したというならば、身を清めて、潔斎し、清め祓うのが、当然である。

更に、そこで、事故が、起こるというのは、霊的障害である。

更に、宮司に、何か、不祥事があると、みる。

恐れ多くも、神を頂く神宮を、名乗るのである。

その、対処の仕方は、実に、アホ、馬鹿、間抜けと、言ってよい。

神社の伝統は、2000年を超える。
それを、知ってのことか。

更に、神宮とは、神社よりも、格が高いのである。

神社は、かむやしろ、である。
神宮は、かむのみや、である。

ちなみに、出雲大社は、いずもおおやしろ、である。

さて、その北海道神宮の、対処から、見えることは、宗教の、惰性化であり、居眠り化である。

多くの宗教が、そうである。

つまり、現代の、状況に対処できないのである。
言うことは、御伽噺のような、嘘話ばかりである。

現実の生活と、遊離した、妄想話である。

すべての、宗教に言える。

先祖供養を、掲げる宗教全般もそうである。

供養など、出来るものではない。
それこそ、釈迦仏陀が、教えたのは、自業自得、因果応報の、システムである。

供養して、浮かばれる霊が、いるならば、余程、惚けている。

自分の尻は、自分で、拭くことなのである。

信仰とは、今を生きるということに、他ならない。

それは、どの宗教も、そうである。しかし、信徒の数が安定して、それなりの、売り上げがあると、安穏として、堕落する。

何の、苦労もせず、信者から、金が入るのである。
勿論、それらは、皆、地獄へ行く。
地獄という、霊的場は、無いが、あえて言う。

宗教家は、皆、舌を抜かれる地獄へ行く。

嘘偽り、知らないことを、言うからである。

さて、私は、東京目黒区にある、古い、稲荷神社と、縁することになった。

それは、神主が、サボって、来ないというのである。
そこで、苦心の末、私に、話が来たと、いってよい。

はっきり言うが、私と、稲荷明神というのは、かかわりが無い。
私は、天照る、太陽崇敬である。

豊受大神の、眷属とは、別に、関わることはない。
ちなみに、豊受大神は、伊勢神宮の、外宮である。

内宮参拝の前に、参拝せよと、言われる、神宮である。

農耕を、司るから、食べ物の神様でもある。

しかし、縁をして来たからには、触ることになる。
触るとは、縁するということである。

神主が、サラリーマンのようになってしまった。
馬鹿馬鹿しい限りである。

今、神社は、浮遊霊の住処ともなる。
出来れば、関わりたくない。

しかし、その神社は、古い社である。
古くから、信仰されてきた、その社に、収まる、霊的存在が、縁してきたと、考える。

多くは、その神社を信仰して、他界した霊的存在が、関わる。

毎日、参拝者が、訪れるという、神社であるから、霊的存在も、まともに、扱って欲しいと、思うのである。

人を介して来た、その人は、私とは、縁深いのであるから、私を、目指して来たと、思われる。

こんな者を、目指してくる程、今の、宗教家が、駄目になってきたということだ。

要するに、姿、形ではない、そのものの心を、求めるのである。

姿、形から、入るという、日本の伝統が、壊されているのである。
本来は、姿、形から、入る。

しかし、それでは、もう、望みが無くなったのである。

霊的存在も、心を、観る。
心からの、崇敬を求める。

あちらは、お見通しである。

信じる者は、信じるがいい。

しかし、騙されるほど、信じることはない。

こちらも、霊的存在である。
そのことを、忘れて、信仰など出来ないのである。




posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。