2009年05月05日

最後の沈黙を破る 5

ゆえあって、音大の、トーホーという学校のことを、知ることになる。
トーホーとは、桐の方であり、もう一つの、トーホーは、馬鹿、アホの集いである。

と、思いきや、桐のトーホーも、アホ、馬鹿の集いであったという、顛末。

桐ではない、トーホーの方は、単に、頭が悪過ぎでも、大学卒になるという、だけの話。
しかし、桐の方は、それなりに、世に認められているというが・・・

大半は、子供時代から、ピアノを習い、親が、必死になって、お金を注ぎ込んだ、という、それだけの話である。
お金を、注ぎ込むと、囚われる。
何とか、元を取りたいと、あり地獄の、クラシック音楽界という、世界に入らざるを得ない。

馬鹿に、いくらお金をつぎ込んでも、馬鹿なのであるから、いい加減にすれば、いいものを、親は、無心に、悟ったかの如くに、我が子を、信じている。

学生には、三通りいる。
孤立する者。
暇潰しの者。
金を使う者、である。

孤立する者は、本当に音楽をやりたいがために、孤立する者と、某然として、孤立する者がいる。それは、痴呆に似る。

暇潰しの者は、遊びに学校に来ている。
親の財産を食い遊ぶ者である。

金を使う者は、大半が、セックス三昧である。それにまつわる、行為にのみ、エネルギーが出る。
暇潰しの者と、似ているが、時に、セックスの技で、大物と、出会う場合もある。

幼い頃から、ピアノを習わされていたゆえに、大半が、その精神を破壊している。
習いたかったのではなく、習わされていたということが、不幸である。

中には、数少ないが、自ら、ピアノを、習いたいと、志願した者もいる。
それらは、ピアノの、良し悪しを、少しは、知る者である。

日本のピアノ演奏は、世界的レベルである。
それ程、ピアノの演奏技術に高い者がいる。

だが、それは、ほんの一部であり、全部ではない。
一部を、全部と、勘違いする者多く、自分も、その一人だと、思うから、また、思い込むから、救われない。

数学の出来ない者は、音楽、特に、西洋音楽は、出来ない。
西洋音楽は、数学の世界である。

芸大、桐のトーホーが、この程度なのだから、後の、音大は、押して知るべし。

世の中の、ゴミである。

和芸の場合は、下手でも、爪弾いてくれれば、それなりに、風情になるが、ピアノは、風情も、へったくれも、無い。ただ、喧しい。

だから、大半が、耳をやられる。
音楽をやってはいるが、耳が悪いというのは、致命的である。

更に、頭が悪いから、世の中の、害である。
ガ鳴り立てるというのが、関の山の、ピアノ演奏を、堂々として、意気揚々としている様には、呆れる。

長い、分節を覚えられないがために、曲の説明も、演奏技術の説明も、舌足らずであり、少し、難しい言葉を使うだけで、我、賢いと、信じる様、あわれである。

曲の完成度が、高く、技術的にも、熟練している。

これで、評価して、満足げにしている。

洗足とか、フェリスという、金儲けの学校の、ピアノ弾き達は、指導者も、迷っているのか、いつも、迷うのである。
音楽に迷う。
更に、頭の悪さが、拍車をかけて、何を、何処を、目指しているのか、解らない、演奏を、平気でする。

それらが、また、集いを作り、なにやら、分かったような、演奏会を開催して、身内で、納得し、満足する。
つまり、自己満足の何物でもないことを、やって、世の害になっている。

さらに、拍車を、掛けるのは、頭の悪い声楽家という、勘違いの面々である。

それらが、一緒に集うから、益々、馬鹿の集団になる。

歌をやりたいというのと、聞かせられる歌を、歌うのとは、違うことを、知らない。
勿論、参加費を払って、舞台に出る者に、言うことも無い。

お金を払っても、聞きたい歌と、お金を貰って聞きたい歌と、お金を貰っても、聞きたくない歌がある。

私は、ある時から、無料コンサートのみ、開催することにした。
理由は、無料であるから、嫌になれば、いつでも、会場を出られる。更に、招待しないので、嫌な人は、出で行く。
それでいい。

音楽芸術は、西洋でも、東洋でも、すべて、あるモノに、捧げて行われていた。それを、私も、やっている。

私の、場合は、神や仏に、捧げるモノではなく、追悼慰霊をした場所の霊位に、捧げる。
お客が、数名でも、甚だしくは、誰も、いなくても、それを、捧げる。

無理やり、誰かに、聞かせることもない。
更に、素人であるから、自己満足である。

そうして、すべて、納得して、開催する。

ピアノコンサートも、然り。

一度、誰も、お客がいないコンサートになったことがある。
実に、有意義だった。
スタップが、一生懸命に聞いて、注文をつけて、弾き方を替えさせたり、同じ曲を、もう一度と、聴いた。

通常のコンサートでは、出来ないことである。

その曲は、もういいから、あの曲を、もう一度などとは、コンサートでは、出来ない。

そろそろ、そのような、コンサートに戻して行きたいと、思っている。

あれあれ、あの曲弾いてと、いわれて、答えられるピアノ弾きの登場を願う。

一度、さくらさくらの、メロディーだけ、聞かせてと言うと、弾けないという、ピアノ弾きがいた。練習していないからと、言う。
驚いた。
桐のトーホーではない、トーホーである。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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