2009年05月04日

最後の沈黙を破る 4

藤岡 崩 かむあがり 1275日祭を過ぎて、つまり、三年と、半年を過ぎてである。
突然、ホームページに、遺骨のこと、墓のこと、お参りのこと、などが、書き込まれた。

私は、三年祭を過ぎて、藤岡の遺骨は、未公開であり、お参りは、遠慮していただくことを、提示していた。

お墓を、どこに建てようが、私の判断である。
バリ島に社、やしろ、を建てて、お祭すると書くと、藤岡は、東南アジアを、好まず、また、活動していた付近に、建てるのが、云々という、アホが、書き込みした。

書き込みはするが、お墓を建てるために、お布施をしますなどとは、書かない、書けない。

世の中は、このような、へんてこりん、この言葉は、藤岡が、特に好きだった言葉であるが、へんてこりん、な、人が多い。

三年祭を過ぎても、一度も、お参りしたことの無い人が、未公開とは、どういうことでかと、書き込みする。

面倒なので、すべて、くくって、言えば、要するに、暇潰しに書き込んでいるのであり、何ら責任の無い言葉を、書き込むのである。
世の人、多くそのようである。

自分勝手、自分の顕示欲のみ。
勿論、死んだら、浮遊霊になる。

ただ、実に、数少ないが、きちんと、メールで、問い合わせてくる人もいる。
お参りがしたかったが、辛い思いがあり、中々出かけられなかった。今、ようやく、お参りが出来るようになった。
そこで、お参りをしたいのですがと、ある。

私は、それでは、三年祭が済みまして、今は、未公開とさせていただいています。もし、追悼慰霊の気持があるならば、藤岡の歌声を聴く会に、いらっしゃり、十分に、慰霊をしていただきたいと、返事をする。

すると、矢張り、自分は、恥ずかしいことを、申し出ましたと、返事が来る。
これが、常識的という、行為である。

後のモノは、アホ、馬鹿、間抜であり、自害して果てた方がいい。ただし、死んでも、浮遊霊になる。

例えば、二年祭の時に、どうして、来なかったのかと、私は、問う。
その日が駄目なら、別の日でも、どうして、コンタクトして来なかったのか。
また、三年祭まで、どなたでも、受け入れて、お参りをしてもらっていたのである。

何を、今更、言うのかである。

お墓に、お参りして、自分の言いたいことだけを、くだくだ述べて、慰霊だと、思っているのが、見え見えである。
慰霊の行為自体も、知らないのである。
笑う。

私は、お参りにいらした方に、どのような、方法でも、結構ですと、言った。
ある人は、遺骨の前で、歌った。
ある人は、お経を上げた。
ある人は、じっとして、涙を流していた。
ある人は、神道の作法で、礼拝した。
ある人は、キリスト教の祈りを上げた。
ある人は、じっと、遺影を見詰めて、過していた。

規則作法守り通すのもよし、捨てるのもよし、である。

線香も用意していた。

藤岡とは、死後の話をしていたので、宗教作法には、全く関係なく、藤岡は、人の心を、頂いていた。

さて、それで、今まで、来なかったモノが、何を言うのかである。

三年と、半年を、過ぎてから、思い出したかのように、である。
笑う。

そして、墓を建てるの云々と、言った。
藤岡の墓を、無縁墓にしない人が、いれば、名乗りでよと、私は書いた。
結果は、誰もいないのである。
居る訳が無い。
自分の墓でさえ、無縁になるのである。
ましてや、浮遊霊である。

そんな、気の利いたようなモノは、いない。

実に、馬鹿馬鹿しいのである。

そして、それが、世の中である。

藤岡が、亡くなり、利益を得られないと、思った、偽善者たちは、一度も、お参りに来ないのである。
名前を書けば、ああー、あの人という人が多い。
これが、世の中である。

世の中が、こういうものであるということ、藤岡の死によって、理解し、知った私は、どうするのか。

それらに、関わる必要は無いと、思う。
そして、我が日の本のために、命を捧げた、戦争犠牲者の追悼慰霊を、行う。

すると、また、詮索好きのモノが、私の行為を、藤岡に対する、疚しい気持、贖罪の気持で、行っているのかと言う。

自分が、そうであるから、人もそうだと、思う。

人は、人を判断する時、人の判断ではなく、自分の判断でする。当たり前である。
自分以外の人の、考え方など知らないのである。

それを、主観という。
主観でしか、物事を見られないのが、世の中の人である。
その主観を、徹底的に、観察して、分析し、それを、限りなく、主観から、遠ざけて、客観というものに、行き着く人もいるが、稀である。
科学的に、行動する人は、真実、稀である。

藤岡が、よく言っていたことが、ある。
木村さんを、どう見るのかで、その人が、分かると。

つまり、私には、何も無い。
ただ、受付したり、裏方で、作業をしたり、何も、特別なことは、しない。しかし、私の存在に対して、云々する人が、多々いる。
それらは、私の存在に、自分の心の内を、写して、判断するのである。

だから、藤岡は、木村さんに対する言葉で、その人が分かると言った。

そうして、藤岡は、信用できる人を、正しく選択していた。

あの事故の日も、ピアノ弾きの、某とは、予定していた、リサイタルで、終わりにするということを、言うために、わざわざ、部屋に戻っての、事故である。

某は、藤岡を、見抜けなかった。
私の批判と、批難を、散々したのだろう。

まだ、生きているのか、私は、知らないが・・・
未だに、野蛮なピアノを、弾いているのだろうか。
噂も聞かない。

世の中の人は、騙されて喜ぶようである。
宗教団体を、観察していれば、よく解る。
明らかに、騙されていると、第三者は、解るが、本人は、進んで、騙されるのである。

そして、身も心も、神や仏に捧げて、死んで、浮遊霊になる。

一部の神社、多くの仏閣、宗教施設は、ほとんど、信者の浮遊霊が、たむろする。
私は、近づかないのである。



posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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