思うように、風が吹く。予定通りに、都に着いた。人に気づかれないようにとの気持ちがあり、陸路も、質素にしたのである。
家のさまもおもしろうて、年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、所変へたる心地もせず。昔のこと思ひ出でられて、あはれなること多かり。つくり添へたる廊など、ゆえあるさまに、水の流れもをかしうなしたり。まだ細やかなるにはあらねども、住みつかば、さてもありぬべし。
邸の造りも、趣深くして、長年住んだ、明石の海岸に似ているようで、転居したという、感じではない。
尼君は、昔のことを、思い出して、あはれなること多かり。感慨深く思うこと多いのである。
新たに建て増した渡殿など、ゆえあるさま、深い意味がある如く、造ってあり、遣水も、面白く造ってある。まだ、十分とは、いえないが、住み慣れることで、さてもありぬべし、と、ある。
住んでみれば、慣れてくるのである。
親しき家司に仰せ給ひて、御まうけの事、せさせ給ひけり。渡り給はむことは、とかうおぼしたばかる程に、日ごろへぬ。なかなか物思ひ続けられて、捨てし家居も恋しうつれづれなれば、かの御かたみの琴を掻き鳴らす。折のいみじうしのびがたければ、人離れたる方にうちとけて少し弾くに、松風、はしたなく響き合ひたり。
殿、源氏は、親しい家司に命じて、到着を祝う、用意をさせる。
ご自分が出る事は、あれこれと、口実を考えているうちに、何日も経てしまった。
御方は、物思いが絶えず、捨てた明石の家も、恋しく思われる。する事もないままに、殿の、残された琴を、弾いてみる。
その時は、耐え難い気持ちのときであり、人の来ないところで、気を許して弾いてみると、松風が、実に妙に、音を合わせるのである。
尼君、もの悲しげにて寄り伏し給へるに起きあがりて、
身をかへて ひとりかへれる 山里に 聞きしに似たる 松風ぞ吹く
御方
ふる里に 見し世の友を 恋ひわびて さへづることを たれかわくらむ
かやうにものはかなくて明かし暮らす。
尼君は、もの悲しげに、寄りかかり横になっていたが、起き上がり、
以前とは、別の姿になって、一人帰ってきた、この山里に、明石の浦で聞いた、松風が吹くことです。
御方
古里で、親しんだ人々を慕い、調子のはずれたように響く琴の音を、誰が聞き分けてくれましょう。
このように、頼りない気持ちで、日々を過ごしていた。
大臣、なかなかしづ心なく思さるれば、人目をもえはばかりあへ給はで渡り給ふを、女君には「かくなむ」とたしかに知らせ奉り給はざりけるを、例の聞きもや合わせ給ふとて、消息聞え給ふ。源氏「桂に見るべき事侍るを、いさや、心にもあらでほど経にけり。とぶらはむと言ひし人さへかのわたり近く来居て待つなれば、心苦しくてなむ。嵯峨野の御堂にも飾りなき仏の御とぶらひすべければ、ニ三日は侍りなむ」と聞え給ふ。
大臣、源氏は、今更になって、落ち着かない気持ちである。人の見る目も、我慢できずに、出掛けるのだが、女君には、はっきりと、知らせていないのである。いつものように、よそから、耳にされるだろうと、言葉を掛ける。
桂に用事があって、なにやら、心ならずも、日が過ぎてしまったこと。訪ねると約束した人まで、あの近くで、待っているとのこと。気にかかっている。嵯峨野の御堂にも、飾りつけていない仏像のことなど、色々とあります。ニ、三日は、いることでしょう。と、おっしゃる。
「桂の院といふ所俄かにつくろはせ給ふと聞くは、そこにすえ給へるにや」と思すに、心づきなければ、紫の上「斧の柄さへ改め給はむ程や。待ち遠に」と心ゆかぬ御気色なり。「例のくらべ苦しき御心、いにしへの有様なごりなし、と世人もいふなるものを」
何やかやと御心とり給ふ程に日たけぬ。
桂の院というところを、急に、修繕させるということを耳にするのは、そこに、明石の人を置くのであろうと、思うと、不快な気分になるゆえ、紫の上は、斧の柄を付け替えることになるのでしょうか。待ち遠しいこと、と、不満な様子。
例により、調子を合わせにくい御心である。昔の、浮気心は、なくなったと、世間も、言っているようなのに。
あれこれと、ご機嫌を取るうちに、日が高くなってきた。
斧の柄さへ改め給はむ
嫌味を、言うのである。
述異記に、出ている話しである。
紫の上は、おおよそ、事情が分かっている。