2009年03月03日

もののあわれについて。493

召しありて、内の大臣権中納言参り給ふ。その日帥の宮も参り給へり。いとよしありておはする中に、絵を好み給へば、大臣の下にすすめ給へるやうやあらむ、ことごとしき召しにはあらで、殿上におはするを、仰せ言ありて、御前に参り給ふ。この判仕うまつり給ふ。




お召しがあり、内大臣と権、中納言が、参内される。その日は、帥の宮も、参内された。趣味の広い中でも、絵を特に好まれるので、大臣が、内々に、お勧めしたのか、表立ったお召しではなしに、殿上の間にいらしたのを、主上の言葉があり、御前にお上がりになった。これらの絵の、判者を勤められる。




いみじうげに画きつくしたる絵どものおもしろき事どもを選びつつ筆とどこほらず画きながしたるさま、たとへむかたなしと見るに、紙絵は限りありて、山水のゆたかなる心ばへをえ見せ尽くさぬものなれば、ただ筆の飾り、人の心に作り立てられて、今の浅はかなるも昔のあとに恥なく、にぎははしくあなおもしろと見ゆる筋はまさりて、多くの争ひども、今日はかたがたに興ある事ども多かり。




まさに、技巧の限りを尽くした絵が、多く、帥の宮も、優劣が判定できずにいる。四季の絵は、昔の名人たちが、興ある題材を選び、すらすらと、描き流した風情は、言葉にならないと、思われる。紙絵は、大きさが決まり、山水の豊かな趣を、十分に現し尽くせず、ただ、筆先の器用さ、描く人の、趣向によっていて、今時の深みの無い絵であるが、古い絵に劣らず、派手なところは、実に良いと思える。それは、古いもの以上で、多くの論争なども、本日は、両方共に、興味があることが、多いのである。





朝がれいの御障子をあけて、中宮もおはしませば、深う知ろしめしたらむと思ふに、大臣もいと優におぼえ給ひて、所々の判ども心もとなき折々に、時々さしいらへ給ひける程あらまほし。定めかねて夜に入りぬ。左はなほ数ひとつあるはてに那須の巻出できたるに、中納言の御心騒ぎにけり。あなたにも心して、はての巻は心ことにすぐれたる選りおき給へるに、かかるいみじき物の上手の、心の限り思ひすまして静かに画き給へるは、たとふべきかたなし。





朝がれいの間の、襖を開いて、中宮も、ご覧になっている。絵のことに、詳しいと思うにつけ、大臣も、ゆかしく思い、所々、判定が不足な時に、時々、意見を添えられる様子は、素晴らしい。ついに、勝負のつかないまま、夜に入った。
左方は、一番のみの、最後に、須磨の絵が出てきたので、中納言の心は、動揺した。右の方でも、心積もりして、最後の巻は、特に、優秀なものを選んでおいたが、このように素晴らしい絵の名手が、心ゆくまで思いをすまして静かに描いたものは、たとえようも、無い。





親王よりはじめ奉りて、涙とどめ給はず。その世に、心苦し悲しと思ほしし程よりも、おはしけむありさま、御心に思しけむ事ども、ただ今のやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々磯の隠れなく画きあらはし給へり。草の手に仮名の所々に書きまぜて、まほのくはしき日記にはあらず。あはれなる歌などもまじれる、たぐひゆかしく、誰もことごと思ほさず。さまざまの御絵の興、これに皆移りはてて、あはれにおもしろし。よろづ皆おしゆづりて、左勝つになりぬ。





親王、帥の宮をはじめ、皆、涙に咽ぶ。あの当時、皆が、気の毒だとか、哀しいと同情されたよりも、いっそうわび住まいの様子、その気持ちなどが、目の前に見えて、その地の風景、名も無い浦々、磯を、漏れなく、描き表している。
草書体に、平仮名を所々に書き混ぜて、正式の漢文の日記ではない、趣深い歌なども、書き入れて、この残りの巻も、見たいと思わせ、誰も、ほかのことは、考えないのである。今までの、色々な絵の面白さも、みな、この絵に奪われて、実に感慨深く立派である。
何もかにもが、皆、これに譲り、左方の勝ちとなった。


あはれなる歌
あはれにおもしろし
説明し得ない、深さ、見事さを、あはれ、に、託す。





夜明け方近くなるほどに、ものいとあはれに思されて、御土器など参るついでに、昔の御物語ども出で来て、源氏「いはけなき程より、学問に心を入れて侍りしに、少しも才など付きぬべくや御覧じけむ、院の宣はせしやう、「才学といふもの、世にいと重くするものなればにやあらむ、いたう進みぬる人の、命さいはひと並びぬるは、いと難きものになむ。品高く生まれ、さらでも人におとるまじき程にて、あながちにこの道な深く習ひそ」といさめさせ給ひて、本才のかたがたの物教へさせ給ひしに、つたなきこともなく、またとり立ててこの事と心得ることも侍らざりき。絵画く事のみなむ、あやしく、はかなきものから、いかにしてかは心行くばかり画きて見るべきと思ふ折り折り侍りしを、おぼえぬ山がつになりて、四方の海の深き心を見しに、さらに思ひよらぬくまなくいたられにしかど、筆の行く限りありて、心よりは事ゆかずなむ思う給へられしを、ついでなくて御覧ぜさすべきならねば、かう好き好きしきやうなる、後に聞えやあらむ」と、親王に申し給へば、



夜も明け方近くなるときに、ものいとあはれ、何となく物悲しい気持ちになり、お盃など傾けてるときを選んで、昔話の、あれこれがはじまり、
源氏は、幼いときから、漢学に心を入れていましたが、いくらか学問も、ものになりそうにご覧になられたか、院が、仰せられたのは、学問というものは、世間で重んずるものだからか、たいそうできた人で、長生きをし、幸福であるというのは、中々いないものだ。高い身分に生まれ、学問によらずとも、誰にも負けずにいられるのだから、特に深く、学問をやるではないと、お諭しがあり、漢学以外の、あれこれを、教えてくださった。出来が悪くないものの、さりとて、これこそは、と、思えるほど、やれたものも、ありませんでした。絵を描くことだけは、ほんのつまらないものながら、どうしたら、満足がゆくかと、妙に思う折々があり、思いがけない、田舎者になって、四方の海の深い趣を見まして、余すところなく、会得することができました。筆で、描くのは、限界があり、心では、思うように、ゆかないと思われましたが、機会がないのに、ご覧に入れるようなものではなく、こんな機会に、お目にかけ、物好きのようで、後日の評判も、どうかと、思います、と、宮に仰ると、

盃を、傾けつつ、の、お話しである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。