2009年01月18日

神仏は妄想である 217

人間も、他の生物と同様に、究極的にはこうした意味での利益獲得に向けて動く「利己的」な存在である。
内藤淳

人間の最大の、脳の進化もまた、生存、繁殖のプラスにならないのに、他の身体器官と同じように進化したのは、それが、人間の利益にかなうがゆえに、進化したと、考える。

人間の脳の、進化は、集団生活の中での、社会関係に対応する必要性から、進化したと、考えられている。
つまり、自然環境を相手に、複雑で、流動的な人間関係への対応、その中での、利害調整の必要性のためである。

つまり、社会関係に対処するために、言語コミュニケーション能力を含め、知性や理性を持つことが、利益にかなったからであるとする。

脳は、自分の利益のために、行動しているのである。

そこで、釈迦仏陀の、求めた、布施行為という、利他の行為は、いかなるものなのかということも、進化倫理学では、十分に考えられている。

結論を言えば、利他行為も、利己的行為なのであるということだ。

それを、説明するために、進化倫理学入門を、利用する。

さて、果たして、人間の行動は、理性で、行動しているのか。

説明をしていると、タラタラして終わらないから、どんどん、結論を書いていくと、人間の行動原理は、つまるところ、快、不快である。
そして、その快、不快には、利益が反映しているというのである。

われわれは基本的に自分が生存・繁殖する上で利益になるものに対して「快」を、不利益なものに対して「不快」を感じるようにできている。
内藤淳

エーッ、そんなことは、無いと言うのは、キリスト教信者であろう。特に、熱心な、クリスチャンは、否定するはずである。
ところが、彼らの、本音は、不快なことであろうと、つまり、不利益なことであろうと、信仰による理性によって、行動すると、思いこむ。
その心は、その、不快で、不利益なことをすることで、実は、最大の快である、天国という国が、保証されていると、信じ込むことである。

それは、最大の、彼らの利益である。
彼らは、人のためにと、行動しつつ、実は、自分が、天国に入いることのために、信仰の理性で、行動すると、思っている。
実に、偽善であるが、そう、信じている。

人類は、利己的でなければ、生き延びていないし、また、進化もしていなかった。つまり、滅びていたのである。

人間の行動は、その「快」を志向し「不快」を回避することで生ずる。(理性的ではなく)感情や感覚によって行動が決まるこの過程は、われわれに、自分の利益に向けた行動を自然に起こさせる仕組みになっている。こうした仕組みを通じて、人間は、自分でいちいち利害損得を考えていなくても、意識しないまま自分の利益に向けた行動をとる。言ってみれば、われわれは、自分の利益に向けて動くように「できている」のであり、自らが意識している以上に「利己的」な生き物である。
内藤淳

ただ、その副作用にて、後天的に、非利益的、反利益的な情報が、インプットされることで、自分の利益に、反する行動が生じる場合がある。
しかし、そうであっても、元にある、内面の、仕組み自体は、利益確保に向けた、構造と、機能を有していて、そういう仕組みを誰もが、備えているという点では、人間が、基本的に、利益に向けて動くという、原則は否定されないのである。

宗教が説く、利他行為というものも、進化倫理学では、徹底して、自分の利益に、集約して、理解できることになる。

あの、一見して、論じる、空、中論、因縁等々も、それ程、複雑怪奇にして、語る必要も無い。

これを、学べば、竜樹などは、大悪党だったことが、解るというもの。

また、それらの、太鼓持ちたちを、一網打尽にすることが、できるのである。

釈迦仏陀の行為も、極めて、利己的な行為であることが、解るのである。

更に、解脱とか、悟りというものも、こけおどしのようなものであることも、である。
まして、仏教の天上界という、魔界に生まれることもない。

実に真っ当に、人間として生きて、人間として、死ぬことができるのである。

そして、人類は、それを、目指して生きてきたのである。
仏などという、化け物に、なる必要は、毛頭無いのである。

内藤氏は、利他行為を、大きく四つに、分けて考える。
第一は、血縁者に対する、利他行為。
第二は、自分と特別な関係にある、人間、夫、妻、恋人などである。
第三は、友人、知人、同僚や、近所の人といった、一定の関係にある人たち。
第四は、見知らぬ人、不特定多数の人に対するもの。これが、多く宗教で、言うところの、利他行為である。

その一つ一つを、取り上げて、実に、理解しやすく、解説している。
入門書であるから、実に、気を配るのである。

その中から、私は、興味深いところを、抜粋して紹介する。

それは、実に、地味な観察である。
進化の過程の観察から、一つ一つの、人間の行動を、じっくりと、観察して、出来上がったものである。
理系の観察方法である。

そこには、文系のロマンは無い。
そして、科学であるから、ロマンはなくてもよい。
その後で、ロマンの必要な人は、付け加えればいいのだ。

そういう意味で、宗教を捉えれば、実に、歪なロマンであるということだ。
性格の悪い、意地悪な、ロマンである。
更に悪いのは、妄想を肥大化させて、現実の世界を見る目を、曇らせ、果ては、人間を、廃人としてしまう程の、威力を発揮する。

実に、宗教では、救われない。
つまり、人間のあるべき姿を、破壊し尽くすのである。
それが、妄想なのであるから、救われないというのである。

この世にも、あの世にも、救いというものは無い。
あるはずが無い。
救いというものも、妄想であるからだ。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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