2009年01月17日

神仏は妄想である 216

ただいま、法華経を見ている。
その中で、空というものが、出て、空の思想を、竜樹から見て、更に、空を、説くという、般若経の心臓部といわれる、般若心経について、書いている。

また、法華経に戻るが、今一度、空の思想と、釈迦仏陀の思想というものを、別な角度で、見ることにしたい。

一体、仏陀は、何を知り、何を観て、そして、何故、生き方指導を開始したかである。

そのために、インド思想史も、俯瞰しつつ、書いている。

「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」といった善悪、正不正には、はっきりとした理由がある。しかもそれは、倫理学や道徳哲学を専門に勉強しないと分からないような複雑で難解なものではなく、単純で明快なものである。そして、人々はそれを分かっていないのではなく、はっきり意識していないだけで実はどこかでそれに気づいている。だからこそみんな「嘘をついてはいけない」「人の物を盗ってはいけない」と本気で思うのであり、道徳や善悪・正不正の区別が人間社会にあまねく存在するのはそのためである。

ではその理由とは一体何か。
それはずばり、利害損得である。
内藤淳 進化倫理学入門

進化倫理学とは、聞きなれない言葉であり、学問である。

対象をその「外」から客観的に観察・分析するというのは、科学的態度の基本である。まさにそのことから、従来より科学の中心は、物理や天文といった自然現象を人間が観察・分析する自然科学であったわけだが、最近ではわれわれの外にあるそうした現象にとどまらず、人間自身の行動や心理を対象にした人間科学が大きく発展している。
内藤淳

そこでは、人間の行動や、思っている動機、理由の背後にある、意識していない心の働きが存在する。
思考や行動が、それらを基にして、生じているということを、様々な実験や観察により、明らかにする学問であるという。

私は、宗教の時代が、終わり、このような、進化倫理学の時代がくると、予想する。

人間科学であり、それは、十分に思索に耐えられるものである。

近年は、人間行動進化学という、分野が、成果を上げている。
それは、生物進化の観点から、その過程で、人間が、いかなる心の働き、行動パターンを、発達させてきたかということ。
生物として、人間が、共通に持つ基本的性質とは、どういうものかを、研究している。

その中でも、人間の道徳性というものが、重要な研究テーマであり、それを、扱う研究が、進化倫理学と、呼ばれる。

進化倫理学に基づいて独自の発想でこの問題を考えたとき、その答えが人間ひとりひとりの「利益」の中に見えてくる。これは、言い換えれば、道徳に「利益」という客観的な根拠を見出すということで、これまでの倫理学ではなかなか答えが見つからなかったこうした問題に、新しい角度から光を当て、独自の見方を提示しているところが、新しい学問分野としての進化倫理学の大きな特長である。
内藤淳

人文、社会科学、自然科学、更に、文系、理系という、枠組みを超えて、人間や社会の問題を考えるという。
分野横断的な、視点を持つ学問として、注目すべきである。

それはまた、宗教の終焉を示す、学問とも、成り得る。

ここで、少し、寄り道して、この学問について見ることで、釈迦仏陀の、観たものを、より深く理解したいと、思う。

人間というものは、そもそも、利己的な存在であるとの、主張が、この、進化倫理学のテーマである。

利己的というと、わがままだとか自分勝手だとか、それ自体で「悪い」イメージがあるので、こうした表現をすると、それだけで「人間の性質はもともと悪なのだ」という受け取り方をする人がいるかもしれない。しかし、自分の利益に向けて行動すること自体は善でも悪でもない。
内藤淳

利己的であるのは、人間が、進化によって、地球に生まれた生物であることから、極めて自然なものである。
進化というのは、個々の生物が、自分の遺伝子を次の世代に残す中で、そのため、プラスになる、特徴や性質が、子孫に受継がれることで、起こること、明確である。

生物が、成功裏に、自分の遺伝子を残すということを、包括的、適応度の向上という。適応度とは、専門用語であり、すなわち、利益のことである。

面白いのは、自分の遺伝子を残すことと、種の保存とは、別物であるということ。
生物は、種の保存本能を持たないのである。

進化の過程で、生物に受継がれるのは、自分の遺伝子であり、種という、集団全体を残すための、性質ではないというのである。

種の保存という、考え方は、一種の信仰に似る。

種の保存という、本能は、生物の間に、進化しないのである。
実に、真っ当な、考え方である。

自己犠牲のみに、生きれば、種の保存は出来ないのであるから。

そして、更に、
進化は別に「弱肉強食」でも「優勝劣敗」でもないし、進化倫理学は、競争を擁護する思想とは違う。社会進化論というのは、単なる競争主義の価値観を、進化に関する誤った知識に当てはめて提示したもので、人間行動進化学や本書で論じる進化倫理学とは別物である。
内藤淳
というのである。

進化と進歩とは、違うものである。
劣った者が、淘汰されることで、世界が良くなる、発展するという話は、人間行動進化学からは、出てこない。

これは、非常に、興味深い学問である。
進化した、生物である、人間の精神と、心というものを、再度、確認しつつ、眺めることができる。

更に、釈迦仏陀が、観たものを、進化倫理学というもので、解決することが、出来るのである。

やたらめったら、理解不能な、言葉の数々を取り上げなくても、実に、よく分かる、話なのである。

宗教は、学問の領域に入らないが、人間観察と、その進化の過程から、考察したものは、学問足りえるのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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