2009年01月17日

神仏は妄想である 215

藤見紀雄氏の、般若心経の思想、という著書から、多く刺激を受けて、それを紹介している。私は、今まで、このように、般若心経を、読む者を知らない。

ただし、これは、あくまでも、般若心経という経典の思想であり、その解説である。

釈迦仏陀が、そのように、語ったと、藤見氏も、言うが、実は、釈迦仏陀は、そんなことを、語ってはいない。
何故なら、釈迦仏陀当時に、それほど多くの語彙は無かった。
初期仏典の、ダンマパダなどを、見れば、どうでもいいような、ことが、書かれている。要するに、寝惚けた言葉の羅列である。しかし、釈迦仏陀が行為したことにより、人々は、釈迦仏陀を慕い、釈迦仏陀は、このようなことを、また、このように、説きたかったのであろうが、あると、断定されて、経典が出来上がった。

つまり、多くの人によって、仏教という思想、宗教が作られていったのである。

それを、釈迦仏陀という、権威、無形の権威を、掲げて、それぞれが、教えを立てていったのである。

だから、仏教の教義は、ある見方、例えば、キリスト教神学などから見れば、滅茶苦茶に、見える。

勿論、キリスト教神学というものも、多く、ギリシャ哲学の借り物である。
オリジナルとしては、罪の羅列であろう。
信者を支配するために、膨大な罪の意識になるものを、作り上げたのである。

さて、それを、前提に、藤見氏の、解説を、もう少し紹介する。

釈迦牟尼の思想というのは社会の中で最も恵まれない人達の福利を永続的に保証することにありました。しかしバラモン教の社会においてはそのような思想や倫理観は異端でした。人々は福利の保証されている人達の既得権の永続性が維持されることを秩序の基本に置いていたのです。
藤見

釈迦仏陀の思想は、バラモン教の序列の原理に、反することだった。
しかし、釈迦仏陀は、序列の原理を廃止して、対等の原理を社会に、実現しようとした。

序列の原理は、カースト制のような世襲の階級の序から、長幼の序、性別の序、人種の序、貧富の序、地位の序などの、様々な差別を生み出す原因があることを、発見したという。

序列の原理は、広く流布された情報のよって、形成された観念の中の心象である。
更に、この、序列の原理を守ろうとするのは、権威主義となる。

権威主義はそれぞれの社会の体制が提供する情報を素直に受け入れて心象を形成している具体的な知識を豊富にもった人間によくみられる傾向です。
藤見

そして、権威主義は、画一性の原理と、一体になり、異端者を排除しようとするのである。更に、この、画一性の原理を進めると、全体主義になる。

自由主義とは、多様性の原理により、様々な選択を希望できる思想を言う。

様々な社会には、様々な思想と、倫理観がある。だが、多くの人は、様々な倫理観があるとは、考えられないのである。

イスラム社会、アラブ諸国の、倫理観を、日本人は、真実理解できないということを、知らないと、似ている。
また、イスラエル、パレスチナ問題なども、然り。

民族と宗教が、一体になった、倫理観というものを、日本人が理解するには、逆立ちしても、無理なのである。
大二次世界大戦の、国家神道というもので、解釈も出来ない。
あれは、一時的な、狂いである。
戦争が、終わり、伝統としての、神道に戻った。
勿論、今でも、国家神道の悪夢に、うなされていると、信じ込む者もいるが、大半は、強迫神経症である。


「アノクタラサンミャクサンボダイ」という仏陀の「覚り」が語られるまでには「空」について語られ菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れ「涅槃」に至るまでが語られてきました。このようにこれまでに語られた内容の中に「無上正等正覚」とはどのような概念かを考察するヒントがあるのです。先ず観自在菩薩は「五蘊皆空」と見極めたとき理知を確立したのです。つまり人間の活動は全て観念と一体だということから倫理観や理性的な倫理性の要請を受けて理知が確立されたのです。また菩薩が「顛倒夢想」から遠く離れたのも、仏陀が「アノクタラサンミャクサンボダイ」を得たのも共に確立された理知に依るところでした。これらを振り返ると結局は倫理の問題になるのです。
藤見

その、倫理とは、諸悪莫作衆善奉行、つまり、悪いことをしない、良い事をする、である。

だが、これは、非常に抽象的であるから、具体的現実を、この言葉と、照合するために、現実を抽象化しなければならない。

藤見氏は、この作業を、帰納といい、更に、抽象的な倫理観を実現するために具体化することを、演繹という。
帰納と、演繹という、論理上の作業が的確に行われることが、現実の社会に、倫理を実現することになる。

この作業が、的確に、行われないと、建前と、現実が乖離して、倫理の崩壊を招くのである。

藤見氏は、この、具体性から抽象性へ、また、抽象性から具体性への的確な変換をする知恵が、無上正等正覚だと、推測する。

これについては、これ以上詮索しない。
空の思想、空とは何かということを、書いている。

ただ、言えることは、既存の仏教思想や、このように、般若心経というものを、説くというのは、精神論のみでは、成り立たないということである。

釈迦仏陀の、平等の教えというものを、後世の人々が、真剣に、考えて、経典の中で、議論しているのである。

単なる、精神論であれば、それは、現実生活に、少しの、慰めを与えるが、生きるという、実際的行為の中に、釈迦仏陀の、教えは、生かされないということである。

バラモンの社会で、人間平等を、掲げるということは、とてつもなく、大変なことであり、それは、死を賭けた教えでもある。

何故、人間は、平等なのかということを、般若の思想、大般若経は、語る。
般若心経は、その心臓部だといわれる。

空の思想は、精神論ではなく、現実主義、そして多様な社会に、合わせて、空の思想を、実現するものであろうとの、願いがある。

それならば、神仏は妄想ではなくなる。
神仏が現実に生きることになる。
そこでは、神仏とは、勿論、人間のことである。


藤見氏の、アノクタラサンミャクサンボダイの記述を、私は、カタカナにしている。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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