2009年01月17日

神仏は妄想である 210

諸悪莫作衆善奉行 しょあくまくさしゅうぜんぶぎょう
悪を行わない。善を行うこと。
これが、仏陀最大の教え、また、教えの根幹である。

釈迦牟尼はこの倫理観が社会において実現されるときに全ての悩みも苦しみも解消されて人々の安心が保障されることを確信されていたのです。そしてこれを実現するために「空」や「般若」という概念を取り出して説明しているのが般若経典であり、その般若経典を更に要約した経典が般若心経です。

釈迦牟尼は意図的に提供される「間接的情報」において、ただ人々に受け入れ易い情報を提供することで人々の関心を買おうとすることは邪道であり、人々の権益を侵害することにもなり、提供された情報が流布され人々に受け入れられることが、人々の永続的に保障される福利の向上に繋がるか、人々の永続的な福利を害することに繋がるかという視点が大切にされなければならないと説いたのです。
藤見紀雄

上記のように、解説したものを、私は、見たことがない。

日本仏教愛好者たちは、いつまでも、言葉の概念を、曖昧にして、仏教、いや、それぞれの、宗派の教えを説く。本末転倒である。

悟りと、解脱と、涅槃と、覚りと、味噌糞一緒なのである。
全然、別物であることを、知らないのか、知っても、言わないのか。それで、全く、勘違いして、釈迦仏陀の教えを、捕らえる人、多数。

だから、
無にもなれず
空にもなれず
云々
という、文句を語る人も、現われる。

それは、悟り得ない自分というもの、卑下しているのである。

それぞれの思想によって倫理観の違いはあっても、どのような思想にも倫理観のない思想というものはありません。バラモン教にはバラモン教の倫理観があり、キリスト教にはキリスト教の倫理観があるのです。・・・
倫理観と言っても決して普遍的なものではなくそれぞれの社会や思想によって異なるものです。このように様々な倫理観がある中で釈迦牟尼はその思想から形成された倫理観を「諸悪莫作衆善奉行」という言葉によって示しています。「般若」というのはこの「諸悪莫作衆善奉行」という倫理観を実現するための知恵のことです。
藤見紀雄

現代の、倫理観というものを、理解しない、現在のローマ法王は、コンドームにより、エイズの予防にはならない、云々と言って、フランスの多くの信者、一般の人の支持を失った。

要するに、楽しみの性行為は、罪であるとする、根底から、抜けられなく、兎に角、性を快楽的に扱うのは、駄目。よって、コンドームを使用して、性を楽しむのは、駄目。
妊娠を目指す性行為のみ、よろしいと、今も、思い続け、性に対する倫理観を、変更できないでいる。
中世のまま。
石頭というより、意固地であり、頑固を越えて、頑迷である。

本人は、高齢であり、性の欲望も、希薄で、更に、法王という、聖人振りを演じなければならないからいいが、性欲旺盛な若い人を、自分と同じように、捉えている様は、あはれで、滑稽であり、ほとんど、人生というものについて、知らないのである。

彼が知ることは、死んだら、天国に行き、主イエスの、傍にいられるという、妄想である。
法王なのだから、主イエスから、我が友よと、言われると、信じ込んでいるのである。

さて、悪い行為をするな、善を行うことと、いっても、それは、何かということになる。

それには、理性による論理的な考察が必要になる。

そこで「般若」がこの必要性を満たすのです。そして「悪い行為」とは「他者の権益を侵害する行為」のことであり、「善い行為」とは「他者に権益を提供する行為」のことであることを明確にするのです。仏教ではこの「他者に権益を提供する行為のこと」を「布施」と呼んでいます。この「布施」と言うのはお坊さんやお寺さんに寄進することだけを言うのではなく、少しでも他者の役に立つ行為の全てを言います。
藤見

般若の別名は、理知ということになる。
つまり、理詰めの知恵、である。

日本仏教愛好者たちは、釈迦仏陀の教えを、都合よく、人々に伝えて、自分達の権益だけを、守るという、外道に落ちている。それにさえも、気づかない。

鎌倉仏教から、起こった、宗派の全てを見るがいい。
釈迦仏陀とは、何の関係も無い、蒙昧な教えで、信者を騙し、果ては、布施は、寺にするものであること、供養すれ、供養すれと、一体、誰のための、先祖供養かである。
それで、幸せになる。家族円満、家内安全。

仏典には、一言も無い、戒名から、更には、死者のことには、触れなかったはずが、葬式で、荒稼ぎ。
釈迦仏陀も、アワを吹いているだろう。

それで、お釈迦様の教えは、と、嘘八百であるから、救われないどころか、彼らが言う、地獄へ、直行である。

具体的な知識というのは特定の事物の表面だけを捉えて形成された心象であるために、どうしても建前と現実が乖離し易いところがあります。しかし現実の社会でこの理知を実現するためには多くの軋轢が生ずることも予想されるのです。それぞれの国の統治の在り方についてこの理知を実現しようとすることは政治の問題に関わることです。体制を動かしている人達にとって面白くないに違いありません。それでもこの問題に触れなければ人々の福利が本当に保証された社会を実現できない現実の中にあっては軋轢を恐れることなく「角が立っても」議論を起こすこともまた理知の働きです。
藤見

般若とは、パンニャーという梵語を、そのまま、漢字に当てた言葉である。
それは、理性と知性を、一体にした概念であり、現代の日本語として、相応しいのは、理知という言葉になる。

般若とは、倫理的な妥当性を、論理的に、検証することであり、それを、知恵と言う。

仏陀が、この考え方を得たのは、覚りを得てからの、オリジナルなものである。
更に、この仏陀の、オリジナルは、仏陀の感受性のゆえであること、付け加える。
それを、言い表しえないという、逃げの手は、通用しない。
感受性によるものであることを、明確にしておく。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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