2009年01月17日

神仏は妄想である 208

般若心経の解説書や注釈書は大変な数に上がります。おそらく何所の書店に立ち寄っても一冊や二冊は表題に般若心経の文字を見付けることができるものと思われます。こうした中で何冊かの般若心経の解説書を読みますと語句の説明は様々で共通するところは古い時代の注釈の引用ぐらいなものです。ただ残念なことに経文の流れに沿って一語ずつの概念を明確に説明している解説書には出会うことができませんでした。
藤見紀雄

私も、同じである。
多くは、煙に巻いたものである。
更に、売れない作家をはじめとして、科学者や、ゴロツキ文筆業の者が、書く書く書く、のである。

いかに、宗教というもの、どうにでもなることが、解るというもの。
彼らの、妄想に時間を使っている暇は無い。
だが、それらが、売れているというから、日本人の、読解力が落ちたといえる。

簡単、明瞭が、いいのではない。しかし、小難しい言葉を、並べ立てるアホの書いた者も、うんざりする。

大半の解説書が日本の伝統的な仏教の宗派に所属する宗教家によって書かれていることもあって、語句の概念を一語ずつ明確に説明することより宗教学上の説明に重点が置かれていることが多いのです。また一方で特定な語句についてのみ情緒的な情景描写によって伝統的な説明をすることに努めている解説書もあります。この方法は釈迦牟尼の用いた比喩の方法を模倣したものです。様々な説明が出てくるのは、般若心経という短い経典の中に極めて多くの思想的な内容が抽象化され濃縮されて盛り込まれているため、簡単に釈迦牟尼の思想の全容を読み取ることができるような説明は困難なところがあるからです。
藤見

日本に伝統的な、仏教の宗派があると、想定すれば、の、話である。
彼らは、宗派の教えの、都合に合わせて、解説するということで、邪道、外道に他ならない。
更に、宗教学上の云々とあるが、宗教学など無い。それを、学問としたのは、西洋のキリスト教の、連中であり、日本には、宗教学など、無いのである。

また、宗教を、学問の枠に入れるということは、果たして、いいのかということもある。

あれは、学問足りえるのか。
思想といえば、聞えはいいが、妄想といえば、学問にはならない。

教学などという、連中がいるが、単なる、思いつきのことである。
一人の思いつきを、教学などという、心境が解らないし、驚愕する。

私は、竜樹の空も、般若心経の、空も、最後の、解決を見ている。
それは、最後に書く。

兎に角、藤見氏の、般若心経の、解説は、今までにないものであるから、実に、興味深いのである。

そして、釈迦仏陀の教えに、非常に近いと、判断した。

仏教の思想を伝えるための情報の混乱は経典が作られる前にもありましたが、経典が作られた後にも他の地域で使われている言語に置き換えるときに、元の名辞の表そうとしている概念を正確に理解することができないままに訳出されることでも惹き起こされていたのです。このために釈迦牟尼が神秘的な事柄の不明なところを明らかにして、秘密や神秘性を解消しようとした本願とは程遠い考え方を仏教の教えとして誤解しているところが少なくありません。
藤見

世界の宗教の中で、その教義が、滅茶苦茶なのは、仏教である。
兎に角、とんでもない、飛躍である。
先に書いたように、学問などにはならない程、混乱の至りである。

更に、日本に来て、益々、仏教というものが、不明瞭、不明確、ずたずたに、されたといえる。

とても、おかしいのは、漢語の解釈をするという、仏教愛好者たちである。
勿論、彼らは、それを、真剣にやっている。

実際のところ仏教ほど本来の教えが判らなくなっている宗教はありません。現代の日本においては殊にその傾向が強く「ほとけさま」と言うときの「ほとけさま」とは一体どんな概念を指しているのかはっきりしません。日本で「ほとけさま」と言うとき死者のことか仏像のことを指していることが多く、人間としての仏陀を意識して「ほとけさま」と言うことは殆どありません。このようにして「ほとけさま」とは死者か仏像のことであり、「ほとけさま」との関わりは葬式や盆や法事などといった儀式を華やかに執り行うことに限られてしまったのです。
藤見

その通りで、それらは、すべて、商売なのである。
宗教法人という、税制上の待遇を受けて、さんざんの商売をしているのである。

よくぞ、素顔で、表を歩けるものだと、思う。

ちなみに、仏教は、葬儀も、死者の追善供養なども、一切、取り仕切らない。
まして、死者に戒名など、つける訳が無いのである。

これほど、堕落し、かつ、膨張し、とんでもない常識を作り上げた、日本の仏教というものも、無いものである。

千年以上も前に、漢語で、入って来たお経というものを、未だに、無反省に、読経している様、信じられないの一言。
更に、そこから、派生する、新興宗教の仏教系といわれる、宗教団体は、糞も味噌も一緒。
臭くて、たまらないのであるが、信じてしまえば、あちっのもの。
糞と味噌を、拝んで、救われるという、信じ難い行為を、続ける。

ある、新興宗教の観音経というものを、読んで、仰天したことがある。
神様仏様、兎に角何でもありの、とても、通常の意識では、考えられない代物。

その大元は、神道系で、更に、そこから、狐に憑かれて、出来た新興宗教で、更に、そこから枝分かれしたもので、更にと続く。

そんなものに、お清めされたら、良い人も、悪くなるのは、必死。
健康な人も、不健康になる。

目が潤んで、浮遊霊にとりつかれた、信者の面々である。
ホント、ご苦労さんである。

精神疾患に罹っているとしか、思えないのである。それでも、拝むモノが、欲しいのか。
人間とは、あはれなモノである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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