2009年01月08日

神仏は妄想である 198

法華経、比喩品第三の終わりには、驚くべきことが、書かれている。

十四のほう法と、仏罰である。
ほう法、ほうぼう、とは、法華経を説いてはいけないという、人間の種類であり、更に、法華経を誹謗中傷することを言う。

その十四である。
驕慢 これは、わかっていないのに、解ったと思い込むこと
以下は、文字が難しいので、内容だけを書く。
怠けたり、余計なことに心を奪われていること
物事の表面だけを見て、根本を知ろうとしないこと
肉体と物質の欲にとらわれていること
何でも、自己流に解釈して、大切な点を理解しないこと
そんなことは、有り得ないことだと、浅はかな考えから、お経を信じないこと
この教えに対して、顔をしかめる、すなわち、反感を表すこと
このお経の真実を疑い、ためらう心を起こすこと
誹謗 このお経の悪口を言うこと
このお経を、読んだり、書いたり、持つ人を軽蔑すること
善いことなのに、憎らしく思うこと
善いことなのに、それに対して妬み心を起こすこと
善いことなのに、それに対して、恨み心を起こすこと

庭野氏の、解説で、ここに上げた。

第一の、解っていないのに、解ったと思い込むこと、は、正に、法華経の信者のことである。

どうであろうか、ここまで、気を回して、この経典に帰依すること、信じさせることを、説いているのである。

それに対する、罰がまた、酷いものである。
庭野氏は、仏は、罰を与えるものではない。それは、その人自身の心が、そのように罰のような、状態になると、言うが、後で、訳された、罰を、転写する。

どこの、世界でも、解っていないのに、解ったと思う者はいる。
何も、法華経ばかりではない。
しかし、先回りして、あたかも、法華経を信じない者は、解っていないのに、解ったと思う者として、判断するという、傲慢極まりない、定義を立てている。

この、一つ、一つを見ると、結局は、法華経を信じない者は、誤りであるということになる。

実に、巧みであるが、実に、また、愚かでもある。

見え透いている。

さらに、広大な(大乗の)経典を受持して、けっして他(の教え)を喜ぶことなく、他(の教え)からの詩は、たとえ一詩たりともうけることがない、そのような人に、お前はこのすぐれた経典を説け。
大乗仏典 法華経より

これは、イスラムの影響であろうか。
大乗の教えのみを、受持して、他の教えを、喜ぶな、であるから、つまり、他の教えに帰依するな、信ずるなであり、こうなると、一神教の、唯一の神と、同じ論調になる。

第十一から、第十四までの、言葉が、ふるっている。
軽善、憎善、嫉善、恨善である。
きょうぜん、ぞうぜん、しつぜん、こんぜん、である。

つまり、善いことなのに、軽蔑し、憎らしく思い、妬み、恨むことを言う。

一体、ここまでの、独善とは、如何なることか。
更に、である。この経典に、皆々、やられてしまったのであるから、唖然、某然である。

日蓮が、一神教の如くに、法華経を説いた信仰というものが、理解出来る。
読み込めば、法華経に、取り込まれて、我を滅してしまう。
この、滅するとは、無我の境地でもなく、空観などというものではなく、単なる、大いなる、迷いである。

彼らは、法華経を奉じない者が、迷いにあるというが、それは、逆である。

それの、仏罰は、長いので、次に転写するが、現代の、差別用語の羅列である。

第六の、不解、ふげ、とは、自己流に解釈して、大切な点を理解しないとあるが、それでは、自己流に解釈しないこととは、何かと、言えば、法華経流に、解釈すること、つまり、法華経が一番正しい教えであることを、認めるということであり、その他の、考え方は、一切、認めないということである。

これでは、宗教戦争が、終わらない訳である。

イスラムの、スンニ派と、シーア派は、同じイスラムでも、対立し、テロ行為を、互いに続けている。
どうしたら、彼らを理解出来るのかと、私は、考える。
スンニ派になり、シーア派になって、そこに入り込んで、理解するしかない。

イスラムを、どのように、法華経の愛好者達は、理解するだろうか。
簡単である。
間違った教えを、信じているからだと、言うであろう。
すると、今度は、法華経愛好者と、イスラムが、戦うことになる。

何故、宗教というものが、他を排斥し、攻撃し、その教えというものを、真理であると、信ずる、または、考えるのかといえば、それが、迷いだからである。

神道系の、霊的能力者が、法華経は、悪魔の好む経典であると、看破したのは、正に、釈迦仏陀の、教えから、遠い、排他的、非寛容の教えだからである。

更に、釈尊という、釈迦仏陀に似せた、仏という存在者を置いて、語らせて、撹乱させたからである。

実在の仏陀ではなく、久遠の仏、久遠の仏陀というものを、創り上げた。

日蓮宗系は、釈迦仏陀の、仏法ではなく、日蓮の仏法が、優っているというのである。
つまり、久遠の仏は、日蓮であるという、極めつけである。

全くもって、話にならない。
それでは、仏法というものを、利用せず、何故、日蓮神として、奉じないのか。
そこに、彼らの、ずる賢さがある。

既成の、仏教という、権威に、あやかり、人々を騙すに、手間が省けるからである。

漫画宗教の、幸福の科学の、総裁も、宗教とは、今までの宗教の上に、更に、進化して、真理を説くものだというような、詭弁を弄する。

仏罰があるならば、彼らこそ、仏罰を、受けるに、相応しい。

実在の、釈迦仏陀を、出汁にして、言いたい放題である。
その、釈迦仏陀の権威を利用しての、自己顕示欲の、宗教創設である。

本当に、真理というものが、あるならば、それを知るということは、この世の物などに、一切、囚われることなく、無一物で、在るはずである。

しかし、見よ。
豪華絢爛たる、伽藍を創り、その生活は、高額所得者の、それである。

それを、信じられるものだろうか。

真っ当な、感覚を持つならば、彼らの、生活に、その教えが、実在するであろう。

国家転覆を計った、あの、おぞましき新興宗教の教祖は、美食の毎日だったという。
自分が入った、風呂の残り水を、信者に売るという、錯乱を起こして、平然としていた。
彼を、宗教家、及び、宗教愛好者は、批判できるだろうか。

更にである。

妄想、甚だしき、教えというもので、お金を集める、宗教家というものを、信じられるだろうか。

地獄の沙汰も、金次第とは、宗教の、あり方を言うのである。

アホでも、高額献金をする者は、その上席に座るという。

はっきり言うが、神仏は、妄想である。
妄想でないモノ、それは、今、目の前にいる、人である。
その人と、関係して、人生というものが、展開される。
決して、神や仏ではない。

事実は、歴然としている。
大切なものは、今、目の前にいる、人である。

私は、今、目の前にいる人に、何が出来るのかと、考えることが、生きるとこであると、思う。

それ以外は、単なる、妄想、詮無いことである。

宗教の、迷いと、蒙昧は、目に余る。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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