2009年01月07日

神仏は妄想である 197

そこで、シャーリプトラよ、如来はこうも考えるのである。「私には知力がある、神通力があると考えて、もし(適切な)方法によらないで、これらの衆生たちに如来の知力や(四種の)おそれなき自信などを私が教え聞かせたとしても、これらの衆生はその教えによっては(輪廻から)出離することにはならないであろう。なぜならば、彼ら衆生たちは五欲の楽しみに執着し、三界の歓楽に執着し、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱から解脱せず、(それらによって)焼かれ、煮られ、熱せられ、さいなまれているからである。軒も屋根も朽ち果て、(苦悩の)炎に包まれた家にも似た三界から逃れ出ないならば、これらの人々はどうして仏陀の知を享受することになるであろうか」と。
中央公論 大乗仏典 法華経1より

火宅三界とは、有名である。
この三界において楽しんでいるお前たちは、五欲の楽しみをともなった愛欲に焼かれ、熱せられ、さいなまれている。
と、認識したのである。

燃え盛る家にも似た、三界の中にあって、低級な色形、音声、香り、味、触れられるものに、喜びを見出しては、ならない。

この世を、このように、捉えるということである。

ここまで、現実世界、この世を、徹底して、否定するという、根性は、如何なるものか。

延々と、口説く如くに、これらの、話が続くのであるから、相当に、強迫性神経症の持ち主であろう。

くどいほど、説き続けるというのは、魔的である。

釈迦仏陀は、神通力などを、最も嫌った。
それが、如来は、神通力を持ち、衆生に説くが、衆生は、火宅三界にいて、解らないという。

これが、曲者である。

如来という、架空の存在を作り上げて、焦点を誤魔化すのである。
人の心を支配する時、その絶対性を、説く。
帰依させれば、こっちのものである。

衆生は、火宅三界に在るという、認識は、どこからのものか。
インド魔界からのものであろう。

インドの性愛の手引書などを持ち出すまでもない。
快楽というものを、罪の意識に、持ち上げるなどとは、低級な、聖書のやり口と、同じである。

人間の欲望を、救われない理由とする、その根性は、何か。
人の心を、支配したいという、欲望である。

一体、自分達が、どうして、生まれてきたのかを、知らない。
男女の性の交わりから、生まれたのである。それを、否定するのであるから、いい加減にしろということだ。

庭野日敬さんは、それを、
この物語を終わられた世尊は、と書く。
世尊とは、釈迦のことか。
それならば、嘘である。
釈迦仏陀が、語ったのではない。
作者が、語ったのである。

実在の釈尊お一人だけのことでないのはもちろんです。「わたし」というのは、つまり「仏」ということ、「仏」とは、「真理を悟ったもの」なのですから、「真理を悟ったものにとっては、全宇宙がその人のものだ」という大宣言なのです。

法華経の、愛好者は、実に、大という文字が好きである。

宣言では、足りなくて、大宣言という。
創価学会の、言葉の多くは、皆、大がつくという、アホさ加減。
大勝利、大躍進、大信心、大感動、何でも、大をつけて、信者を、鼓舞させる。それに、単純に迷うから、世話がない。

つまり「無我」になるのです。小さな「我れ」をすてるのです。そして、全体に生かされている「我れ」を発見するのです。

言葉遊びの巧みなこと、呆れる。

更に、
すると、「我れ」は宇宙全体にひろがってゆきます。「無我」こそ「宇宙はわがもの」に通ずるひとつの道なのです。そうなると、われわれの心はまことに自由自在です。何ものにもとらわれず、思うようにふるまっても、することなすことがすべて人を生かす行為になってしまうのです。それこそ、仏の境地にほかならないのです。
と、言うのである。

そうして、立正佼成会という、立派な宗教を創り、更に、立派な建物を、建てて、仏の境地とは、笑わせる。
勿論、彼のみだけではない。
すべての、宗教というもの、同じである。
大伽藍を建てて、平然として、仏の境地というものを、説くという、アホさ加減である。

それで、自由自在ならば、何もいらない。
野山に入り、宇宙と一体になって、死ぬまで、生きればいい。
しかし、彼らの、言い分は、衆生を救うというから、堂々巡りである。

何せ、説いた、本人が、仏になったのかどうかは、すべて、自己申告である。

私も、仏であると、大宣言できるのである。
悟りも、自己申告である。
私も、悟ったと、言える。
しかし、一体、何を、どのように悟るのか。

それに関しては、一切の発言は無い。

甚だしいのは、本当の中道を行くなどいう、輩である。
本当の中道など、どこにもない。
もし、中道という、道があるならば、中道とは、百人百様の道である。

更に、仏というならば、それも、百人百様である。
更に、神というものが、在るならば、それも、百人百様である。
これが、事実である。

仏の真理というものは、大嘘である。
真理という言葉は、観念でしかない。

庭野さんは、
真似ごと(方便)からでもはいらなければ、ほんものには達しられないのです。お経を読むのも、説法を聞くのも、静かに考えるのも、人のためにつくすのも、すべて「我」を捨てて全体に溶けこむための修行だといってもいいでしょう。これが「和」の精神です。たとえ一日に一時間でもいい、こういう修行をつづけてゆけば、わずかずつでも仏に近づいていけるのです。そして、いつか仏になれるのです。それを思えば、ほんとうに大歓喜が心の底から湧いてくるではありませんか。
と、言う。

突然、和の心という言葉が出て来る。
不思議である。
和という、精神活動は、仏教の中には、特に、大乗の中には無い。
和を求めていれば、修行など出来ない。

現実逃避の思想を、ここまで、語り得るというのは、魔物の仕業である。

この人は、「我」を捨てるということを、どのように、説明したのか。
一切の説明は無い。

我を捨てて、無我になって、行為することを、言うとしたら、無我とは、何かということになる。

我が、単に無我になるだけで、何も変わっていないということに、気づいていない。

無我という、我であることに、気づかないのである。

大乗の空観は、無我も、空とするものである。

我を捨てて、無我になったということは、我を忘れて行為しているということか。
それならば、欲望に身を任せて、欲望に没頭すれば、我を忘れて、無我に成れる。
セックスは、正に、彼の言う、無我の境地であろう。

要するに、いくら、説明しても、仏の真理というものは、語れないのである。
それは、そういうものが無いからである。
真理というものは、この世にも、あの世にも無いのであるから、どんなに、言葉を尽くしても、語りきれないのである。

語りきれないから、真理だという、アホもいるが。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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