しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは、「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく信頼なのだ。この違いは大きい。
信仰とは、「絶対者に正しい存在がこの世にいる」と考えて、その前に自分のすべてを投げ出し身を任せることである。だから神や超越者に救いを求める宗教では、信仰が何より大切な原動力となる。一方、釈迦は絶対者の存在を認めなかったから、そこに信仰の対象というものがない。すべてを任せれば救ってくれる、そういう者はどこにもいないのである。
上記、実に、真っ当な感覚である。
仏教大学に、このような、真っ当な感覚を持つ先生がいることが、それこそ、救いである。
釈迦は、絶対者の存在を認めなかったとは、目から鱗であろう。
それを、釈迦を絶対者に仕立て上げた、大乗仏教というものが、いかに、誤りであるかということ。更に、である。
菩薩や、如来などの、神もどきを、沢山作り上げたということである。
それそこ、信仰の対象を、創り続けたのである。
勿論、釈迦仏陀も、その一人となった。
釈迦の教えには、信仰の対象というものがない、と言い切るのである。
その通りである。
すべてを任せれば、救ってくれるという、者は、どこにもないと言うことも、真っ当である。
それは、他力でも、自力でもない。
それこそ、知恵である。
更に、続けると、
釈迦自身は、普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。そしてそれを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。釈迦という人物を信仰して、「助けてください」と祈るのではない。釈迦が説いた、その道を「信頼して」、自分で歩んでいくのである。だから、釈迦が完璧な絶対者でなくても少しも構わない。道を信頼する気持があれば、それだけで仏教は成り立つのである。
それだけで、仏教は成り立つのである。
在家信仰を推し進めた、大乗は、これを、幾度も、読むことである。
更に、日本大乗仏教の、愛好者は、僧侶に、師事せずとも、我が身で、釈迦の教えた道というものに、歩み出せばよい。
この、考え方は、多分に、中国思想の匂いがするが、釈迦の教えは、実に、それに近いのである。
老荘思想も、絶対者を置かない。
絶対者を想定すると、妄想は、実に楽々である。更に、お任せするという、安心、あんじんという気持が、心地よい。
主よ、と呼びかける、キリスト教徒は、それだけで、酔いしれる。甚だしい場合は、涙を流す。その救いに預かっていると、信仰しているからだ。
アッラーも、そうである。
ユダヤ教徒も、同じく、全能の神である、主を、信仰する。そして、更に、それが、民族神であるから、やり切れない。
佐々木氏は、信仰と信頼の違いは、大きいと言うが、違いではなく、全く別物である。
帰依するという言葉ほど、上手い言葉は、無い。
絶体絶命の淵に立ち、帰依をするという、心境は、迷いの最高潮である。
それこそ、悪魔の誘いである。
人間として、立つという意識より、優れたものはない。
信仰者の、心理は、幼児心理学で、足りる。
更に、児童心理学を学べば、更に深まる。
宗教の心理は、その程度なのである。
ただし、言っておくが、だからといって、目に見えない世界を、軽んじる者も、甚だしく、愚かである。
唯物論というものは、実に、深いもので、単なる、唯、物ではないはずである。
その、物を、存在せしめている、目に見えない働きというものを、知っての、唯物論である。
見えるものは、見えないものによって、成り立つということを、知らなければ、表だけの、化け物である。
簡単に言えば、樹木には、見えない根があるということ。
見えるものしか、信じませんと、簡単に言う人には、注意しなければならない。
更に、聞えるものは、聞えないものに支えられてある。
聞えないものがあるから、聞えるものを、認識できるのである。
仏教にて、ぐだぐだと、説く言葉は、単なる、パズル遊びに等しい。
こうだから、こうで、だから、こうなり、そして、こうなって、更に、こうなるのである、という、言葉遊びに嵌ると、抜けられなくなる。
それが、信仰病である。
屁理屈、小理屈である。
それを、智慧だと、勘違いして、没頭するのは、学問が足りない故である。
そんな言葉遊びをしていても、どうにもならない。
ただ、どうにかなっていると、信じきるのみである。
ネズミが、クルクルと、輪を回るのに、似ている。
堂々巡りである。
しかし、その堂々巡りで、人生が輝くと、思い切るのである。そして、更に悪いのは、その暗示効果で、事が、上手くいっていると、思うことである。
信仰で、勝ったとは、迷いである。
信仰で勝つことなど、有り得ない。
それは、自己暗示の力である。
奇蹟というような、事態は、悪霊の関与するところのものである。
釈迦が、最も嫌ったのは、それである。
奇跡的な事柄を、特に嫌った。
生まれて、生きることだけでも、奇蹟なのに、それ以上の奇蹟を、求めて、どうする。
太陽が、東から出て、西に没することが、奇蹟である。それ以上の奇蹟はいらない。
事は、奇蹟ではなく、成る様になったのであり、それは、そうなるべくして成ったものである。