2009年01月03日

神仏は妄想である 192

ジャイナ教も、仏教教団に、負けず、民衆に盛んになった。
中央、東南インドにかけて、教祖、マハーヴィラが信仰の対象となる。

舎利崇拝が、行われたのは、仏教と、同じである。
ストゥーバーの崇拝も同じく、その近くには、寺院が建てられ、在家信者たちは、そこに、多くの、祀堂、奉納堂、貯水池、給水所、遊園、柱、石版などを、寄進した。

更に、ジャイナ教も、細かく分裂する。

西暦200年前後から、マイトリ・ウバニシャドが、従来のウパニシャドの諸思想を、包括、継承するとともに、新しい思想的発展を示している。

厭世観から発し、身体を不浄なものとして見て、肉体と精神の関係を、問題とした。
アートマンは、微細なもので、不可取、不可見であるが、その一部分によって、ひとりでに身体の中に入っている。

それを、人は、プルシャと呼ぶ。
純粋精神が、いかにして、物質と結合したかを、創造神話を借りて、説明する。

更に、内我と、元素我との、二種のアートマンを想定し、元素我を、捨てて、我と融合することによって、解脱が得られるとした。

それに至る方法として、ヨーガの修行を規定している。

ウパニシャドと称する文献は、その後も、多数作られた。
実際には、200以上伝わるという。

その中で、後に作られた、ウパニシャドでは、六種に分類される。

純ウパニシャド、ヨーガを説くウパニシャド、隠遁遍歴を説くウパニシャド、ジヴァ神の崇拝を説くウパニシャド、性力派の影響のあるウパニシャド、ヴィシュヌ神の崇拝を説くウパニシャドである。

そして、インドのみならず、広く、東南アジアに、影響を与えた、叙事詩、マハーバーラタと、ラーマーヤナは、同時期に、成立した。

マハーバーラタは、哲学思想を説く。
これは、バラタ族の戦争を語る大史詞という意味で、18編10万の詩句により、付録として、ハリヴァンシャ約16000の詩句を持つ。

それは、仏教興起よりも、以前に行われた大戦争に関する物語が、語り継がれて、逐次集成されつつ、西暦前200年から、西暦後200年の間に、おおよそ出来上がり、西暦400年頃に、現在の形に成ったといわれる。

戦争を主にして、その他の、神話、伝説、物語を含め、当時の、法律、政治、経済、社会体制を知るうえで、無尽蔵の資料を提供するものである。
また、当時の、民間信仰、通俗哲学も、伝えるという。

ここで、驚くべきことは、釈迦仏陀の、教えと、同じことを言うのである。

叙事詩の本筋に登場するのは、すべて武人であり、バラモンは単に、介在的人物として、扱われている。更に、バラモンの優越性に対する反抗が、認められる。

中には、バラモンが、叡智ある猟師から、哲学、道徳に関する教示を受け、人の尊さは、身分や、儀式、学問によるものではなく、行いの如何によると、説かれる。


他方、現世否定的な厭世主義、消極的な無活動を尊ぶ、隠遁主義も、説かれる。
後代に成立した部分には、バラモン尊重の態度が、強く示されるのは、作為あるものである。

叙事詩の神話では、梵天、ヴィシュヌ、シヴァの三大神が、特に崇拝されている。
それぞれが、最高神を競うという。

また、世界の各方角を守護する神として、八つの世界守護神が、立てられた。
また、新たに、軍神、スカンダ、これは後に韋駄天となる。そして、愛神カーマなどが、現れた。

この叙事詩は、後の、サーンキャ哲学の前段階とする、多くの説が、説かれている。

マハーバーラタから、一編だけ取り上げるとしたら、インド精神を表現するものは、バガヴァッド・ギーターだと、中村元は、言う。

バニタ族の戦争は、クル国の百人の王子と、バーンドゥ王の五王子との間に行われた戦いである。

彼らは、互いに従兄弟同士であるという、骨肉の争いなのである。

バーンドゥの一人の王子、アルジュナは、その運命を嘆き、悲しみ、乗り物の御者である、クリシュナに向かい、悶々と、その情を訴える。
この、クリシュナこそ、最高神、ヴィシュヌ神の化身である。

クリシュナは、怯むアルジュナを激励して、躊躇なく、戦場に赴くべきであると、告げる。

汝の本務のみを見よ。決して戦慄することなかれ。何となれば武士族にとっては、正義の戦いよりも善きものは存在しないからである。

義務を果たすためには、一切を放棄するのである。

汝の専心すべきことはただ行動のうちにあり、決して結果のうちにあらず。行動の結果に左右せらるることなかれ

義務のために、義務を尽くすこと、それが、思想として、明確に表示されたのである。

アルジュナは、クリシュナの話を聞いて、戦いの意義を知る。しかし、彼は、なお、陰影が残っていた。
そこで、クリシュナは、最高の人格神、ヴィシュヌの信仰の、救済を明かす。

この書においては、ヴィシュヌ神は、ブラフマンおよび、最高我と同一視されている。世界の大主宰神であり、クリシュナは、その化身である。

個々の我は、最高我から、現れたものであり、最高神の一部である。
最高神は、最上の人として、人格的に、表象されている。

最高神は、一切の生類に対して、恩寵を与え、救済を行う。故に、この、最高神に対する熱烈な信仰は、最上の行為である。

我は一切の生類に対して平等でなり。我に憎むべきものなく、また愛すべきものもなし。されど信仰心をもって我を拝するものあらば、かれらは我の中に在り、また我もかれの中に在り。

ひとえに我に帰依すべし。我、汝を一切の罪悪より解脱せしむべし。汝、憂うることなかれ。

この神は、善人を救済するがため、悪人を絶滅させるために、それぞれの時期に、権化のかたちをとって、生まれる。彼に、信仰帰依するならば、悪人でも、救われる。

熱烈な信愛によって、最高神の恩寵にあずかり、最高神の本性を知るならば、輪廻の世界を脱する。解脱したものは、最高神と、本質を同じくする。

アルジュナ王子は、それを知り、我が覚悟は定まった。疑惑は、去ったと、戦場に赴き、偉功を立てた。

以上、物語であるが、それが、インドの精神史に、強く生きている。

最高神の恩寵により、すべての人が救われる。
すべての、宗教の元である、救いというものが、ここにもある。
そして、これらは、物語として、書かれるものである。

人は、生きるに、物語が必要なのである。
人は、物語によって、生きると、言い換えてもいい。

奇想天外、創造力逞しい物語は、人を生かしてくれる。

宗教は、その物語を一つ提供するのである。
宗教が、神話から、抜け出たのは、人間の支配欲からのものである。

物語という、空想の中で、かろうじて、生きられるのが、人間であり、それは、人間の大脳化ゆえのものである。

どれ程、進んだ科学でも、物語の中から抜けられないのである。
何となれば、すべては、決して、明らかにされないからである。

知ることによって、知らないことの、世界の広さを感じ取るのが、人間の、脳の働きである。

故に、信仰と帰依という、思考停止の状態は、生きているとは、言い得ないのである。
それは、物語に生かされているのである。

物語を作れる人は、教祖になれるとでも、言う。
それは、如何様にでも、創作することが、出来る。また、妄想することが、出来る。

ある神社には、決して、見てはいけないという、ご神体があった。
熱心な氏子たちによって、その神社は、手厚くお祭りされていた。
ある夜、一人の若者が、その、見てはいけないといわれる、ご神体を、どうしても、見たくなり、一人深夜、社の奥に入り込む。
いよいよ、ご神体の、扉を開けた。
そこにあったものは、石ころ一つである。

えっ、石ころ、と言ったのか、どうかは、解らない。
若者は、その石ころを、じっーーと見て、更に、目を凝らして見て、矢張り、単なる石ころである。

しかし、若者は、その石ころに、手を合わせて、その場を去った。そして、いつものように、皆と、その神社を、変わらず信仰したのである。

ここに、私の解釈は、差し挟まないことにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第5弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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