2008年12月20日

神仏は妄想である 187

大乗仏典の、法華経を見ている。

ここで、それを、仏教であるという人には、何も言うことが無い。しかし、初期、釈迦仏陀の、仏教というものを、見ることで、釈迦仏陀の、教えというものを、知りたいと思う人に、インド思想史から、見た、初期仏教というものを、紹介する。

仏教の実践的認識の最初に当面した問題は、人生の苦しみということであった。人間はどこにあっても、またいかなるものにたよっても、苦しみから脱することはできない。
中村元

生も苦しみ、老いも苦しみ、病も苦しみ、愛せざるものに逢うことは、苦しみ。愛するものに、離れることも、苦しみ。欲するものを、得ざることも、苦しみである。
五つの執着による、苦しみであり、苦しみとは、自己の欲するがままにならないこと、なのである。

それでは、それらが、何故、苦しみなのか。
それは、すべてが、無常であるからだと、考える。

上記、これも、観念となる。

無常だから、苦しいのである。
何故、仏陀は、そのように考えたのか。
それは、一つの、考え方である。

無常だから、楽しいのであると、考えることも、できたはずである。
ここに、仏陀の、病理がある。

青年、釈迦仏陀は、抑鬱症であったと、判断する人は少ない。
釈迦仏陀を、人間から遠い存在、更に、神格化するほどまで、高めたものは、何かということである。

鬱病の人は、すべてが、悲しみに彩られる。
瑞々しい、生命感覚を、持てないのである。
そして、それは、病である。

十歳くらいまで、子供は、いつも、シータ波という、脳波を出しているから、いつも、楽しく、わくわくして、生きている。
それが、成長するにつれて、シータ波が、後退して、脳に、複雑なシナップスが、現れてくる。それは、思考によってである。

その、思考は、言葉によってなる。

進化の過程で、子供のシータ波が、後退するようになっていったとすると、本来は、古代の人は、シータ波によって、生きていたと、考えられる。
それは、いつも前向きに生きるということである。

毎日毎日が、新しい発見であり、楽しくてしょうがないという、生命感覚に溢れていた。

しかし、脳が、複雑化するにつれて、人間は、抑鬱という脳の状態を、現してきた。
物を考える力が、そうさせたのか。
思考することで、人は、その精神に、翳りを帯びた。

宗教というものを、見詰めていると、次第に、人間の根本の心理状態というものを、見詰めるようになる。
本来は、何も意味の無いことであるが、そこに意味を、見出そうとするのである。

釈迦仏陀の憂鬱も、それであった。
一体、生きるとは、人生とは、何かである。

時代は、それから、2500年を経て、更に、その欲求が強くなった。
物事のカラクリと、物事の意味づけを、知りたい、知らなければ、生きていくことが、難しい。
更に、人間を超えたモノという、存在を、創作して、更に、理屈を、作り上げて、せめても、抑鬱の人生に、幻想でも、妄想でも、それに、託して生きたいと思うようになる。

本来は、意味の無いことにも、あたかも、意味あるが如くに、意味を見出す。

それは、人間の大脳化ゆえのことである。

仏陀は、そこからの、安心を得るには、何にも捕らわれないこと、執着しないことであると、説いた。
執着しなければ、つまり、忘れて生きれば、いいのである。
それを、説明するために、精神構造なども、分析して、受、想、行、識、などと想定し、諸行無常と、判断した。

しかし、それは、釈迦仏陀に、必要だったことであり、他の人には、必要ないことかもしれない。
この世の、相というものがあるならば、それは、百人百様に、見えるし、解釈もできる。

更に、霊能という、能力でさえも、百人百様の、様がある。

物質的なものは、色、それは、無常である。無常であるものは、苦である。苦であるものは、非我である。非我なるものは、我が物ではない。これは、我がアートマンではない。
と、仏陀が、考えた。

それは、たった一つの、考え方である。

だが、アートマン、我を否定するのではない。倫理的行動のよりどころとしての、アートマン、我というものを、承認していた。
故に、仏陀の、臨終の言葉は、
自己、アートマンに頼れ。法に頼れ。自己を燈明とせよ。法を燈明とせよ。
である。

人間の理法を実践するところに、真の自己が具現されると、考えたのである。

実に、明確で、単純素朴な、実践的生き方を、説いたといえる。
それに、後世の人々が、理屈をつけ始めた。
仏典というものが、出来上がると、更に、その仏典を解釈する、暇潰しが、行われた。更に、日本では、鎌倉時代に、個人の妄想により、甚だしく、逸脱した、仏陀の教え解釈が、拡大した。

そして、それが、組織になると、もう、手がつけられないのである。

弱さを知る人間は、弱さのままでいいとは、考えずに、妄想でも、何でも、力強く生きたいと、欲するべく、集団、そして、宗派なるものが、登場する。

これは、釈迦仏陀をはじめとする、思考の、自己の思考を試み者たちからの、堕落である。

それが、信じるという行為である。
信じるということは、思考停止状態を作る。

それらは、教えられた、教義を、人に説くのである。
信じているからという、理由だけである。
自分が、考えて、出したものではない。
ただ、信じただけである。

これは、迷いである。

信じるという行為が、迷いであるということ、明確である。
それは、実践し、自分が、考えたことではない。

その、教えの中に、我を、嵌めて、嵌めこんで、我というものの、意識を、失わせての、自己陶酔という、自己不在の、行為だからだ。

様々な、宗教の人の話を、聞かされると、そこには、本人の意思も、思考も、思索も無い。ただ、教えられたことを、繰り返すのみであり、更に、それを、信じない者は、悪であると、考えるのである。

これで、学んだ、言葉の数々を持って、我は、知っていると、完全に狂いを、演じる。

大乗仏教で、教えるところのもの、更に、日本の新興仏教の開祖たちの、考え方をもって、それを、ただ、信じているというだけで、堂々と、論じる様は、完全に迷いである。

何故なら、何一つとして、言葉によって、明らかにされるものは無いからである。
言葉は、仏教的言い方をすると、方便である。
もっと、極端な言い方をすれば、それらは、嘘なのである。

嘘も、方便も嘘である。

それでは、何か本当だろうか。
それは、無意味であるということだけだ。
何一つとして、確定した意味などというものは、この世には無い。
天地が、滅びれば、すべてが、滅びるに決まっている。
思索の足しにするという意味で、宗教は、存在する。
信じるモノではない。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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