2008年12月19日

神仏は妄想である 184

法華経に、限らず、鎌倉仏教、つまり、日本の新興仏教の始祖たちが、言う、兎に角信じること、という、呆れた、自己放棄、それを、禅では、放下、ほうげ、ともいう、姿勢を、説くのである。

今、ランダムに、本棚に手を伸ばして、創価学会の法華経の解説という本の、箇所を、読む。

諸仏の智慧が南無妙法蓮華経の智慧なら、その智慧に入る門はまさに信心以外にありません。南無妙法蓮華経の智慧を自分のものとするには「以心代慧」「以信得入」といわれるように、自己の浅はかな見識や智慧を捨てて、大聖人の御図顕された御本尊を信ずる以外にないのです。そして、この「信じる」ということがまさに難解難入なのです。

難解難入、なんげなんにゅう、である。
非常に難しいというのである。
信じなければ、智慧を得るのは、難しいというのである。
そして、信じることが、難しい。一体、信じるということを、何と心得ているのだろうか。

この、蒙昧は、計り知れない。
信じてしまえば、また、信じさせれば、後は、簡単に、騙せる。
どんな、無理難題も、信じた者は、行為する。
その一つが、金集めである。

浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗などなど、その信徒を見れば、寺に言われた通りに、金を出す。出さない信徒は、除外される。

地獄の沙汰も金次第という、言葉があるが、あれは、寺のことを、言ったものである。
金を出さなければ、救いもないのである。

その証拠に、戒名なる、実に不思議な、金集めの方法がある。
全く、意味は無い。

私は、戒名についての、資料を徹底的に調べた、また、それを、肯定する者の、本も読んでみた。
全く、こじ付け、妄想の、様々である。

釈迦仏陀は、一切、そのようなことを、言わない。
まして、在家に対して、仏弟子に、云々などとは、言わない。
呆れて、物も言うことが、できないのである。

浄土宗、浄土真宗は、死後に、阿弥陀の世界に行きます。それで、救われますというのが、前提で、戒名なる物を、つける。
死後、どこに行ったのかは、誰も解らない。特に、坊主は、解らない。
何せ、その宗祖も、霊界の何処にいるのか、解らないという、様、ざまである。

勿論、霊界に、阿弥陀の世界、極楽などという、妄想の観念の世界は、無い。ある訳が無い。

霊界の相は、百人百様である。

さて、続ける。

信ずることができればそのまま智慧に代わるにもかかわらず、それが人間、とくに現代人にはなかなかできないのです。なかでも二乗、現在でいえば学者、評論家、芸術家などの知識階層は最も「信ずる」ことのむずかしい階層です。

どうであろうか、この、独断と、偏見、そして、独善の有様。
平然として、このように書けるという、それこそ、難しい階層であろう。
信じて、救われない階層なのである。

信ずることができれば、そのまま智慧に代わる・・・
誠、救いようがないというのは、このことである。
信ずれば、それが、智慧に代わる、だと。
つまり、思い込めば、それが、智慧だというのである。
アホも、ここ、ここに至ると、手がつけられないのである。

さらに、
それは、自己の習得した学問的な知識(声聞)に固執し、また社会や人生に対する自分なりの直感的な悟り(縁覚)を絶対のものとし、それを信じているからです。さらに、人間の知的活動には、それがひとたび開始されると、つぎからつぎへと展開して止まることを知らず、ついには知的活動を生み出した当の主体(生命)を遠く離れて、おおよそ主体とは関係ない孤立したものになるという恐ろしさをはらんでいます。そこからはみずみずしい生命の躍動は発揮されず、社会や他人に対する人間的な温かい関心も生まれるはずがありません。

どうであろうか、この蒙昧を。

これは、全く逆であろう。
主体を、信仰に明け渡して、それで、主体、つまり生命が、躍動するものだろうか。
信仰により、単に、催眠術に陥るということを知らない、暴論である。

彼らは、人間的な、温かみを持っているのか。
信徒同士、更には、信徒にすべく付き合いのある人には、温かいが、敵に対しては、冷酷無残、更には、激しい迫害をする。

彼らが、大聖人という、日蓮の言葉である。
いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一年三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし
というのである。

法華経の敵を、攻め抜かなければ、得道、仏の得を得られないのである。

人間的な、温かみがあるのは、知的活動を続けて、その人間としての、儚さと、小さき者であることを知る、人間の知性であり、理性であり、感性である。

どこに、みずみずしい生命の躍動が、信仰から、発せられるのか。
勘違いの、躍動であり、妄想、自己暗示、自己催眠の、躁的躍動であろう。

勿論、私は、それを、否定するものではない。
貧しく、日々の生活に追われて、息のつく暇もない生活をしている者が、教会のミサに出て、神の、主イエスの、信仰に満ちて、神に愛されている私という、勘違いを、信じ込んで、生きられるならば、何も、言うべきことはない。

その、知能で、やっとこさっとこ、生きられるのも、信仰ゆえである。

私の、祖母も、阿弥陀さんのところに、行くことが、救いだった。
それを、私は、笑わない。

宗教ではなくても、人は、何かを心に抱くのである。
心の、置き所というものを、誰もが持つ。

更に、続ける。
本当の知識階層とは、逆説めいていますが、人間の知的活動、その結果としての知識の累積に対する空しさを知り、人間の力を越えたより大なる実相への畏敬の念を失わない人といえるでしょう。つまり、時間的には無始無終、空間的には宇宙大の森羅万象を貫く根底の法理を知るための方便として学問や芸術を位置づけられる人こそ真の二乗といえるのです。
もっとも、究極的には南無妙法蓮華経を信ずる以外に真の二乗はありえないわけですが、声聞・縁覚階層に対する確固たる眼をもってもらいたいがゆえにあえて述べるのです。

日蓮が、仏教というものを、知らないという、証明は、幾つもあるが、題目という、御本尊を、受持し、題目を唱える以外に、仏になる道は、無いと、断定したことは、余りにも、愚かであり、情けないのである。
それを、教学として、学ぶという、愚行を繰り返す、諸々の、お馬鹿たちである。

仏教としても、間違いが、多すぎる。
あれ程、凄まじく、仏の教えを求めたら、通常だと、天竺に向かうはずである。何故、行かなかったのか。
日蓮は、何故、天竺を目指さなかったのか。
それを、解明すれば、彼の、誤りが解る。

上記、結局、持ち出すのは、宇宙大の森羅万象を貫く、根底の法理という。
根底の、法理などということばを、どうして口に出せるのか。
更に、実相という言葉である。

どこに、何の根拠があるのか。
何も無い。
ただ、信じることだというのである。

日蓮は、折伏という行為を主にしたが、誰も相手にならないのである。
自己陶酔、強迫的人格障害である。

気違いに、誰も、手出しは、出来ない。
それを、受継ぐ、日蓮宗その他、諸々である。

真っ当な感覚を、持つものは、そこに近づかない。
知能レベルの低い者、それらの、小難しい言葉の数々に、何やら、知った気になるという、お粗末さである。

文盲多く、知的レベルの低い鎌倉時代だからこそ、その時代性だからこそ、通用したのであり、この時代では、錯誤としか、言いようが無い。

法然、親鸞の、説教も、皆々、知的レベルが低く、あの、寝惚けたような、お話を、聞けたのである。

遠いところに、阿弥陀様という、仏様がいらしてねー
そこに、行くためには、ねー
念仏をねー
一度だけでも、唱えるとねー
阿弥陀様の、極楽にねー
行けるんだよー
である。

それを、小説を書けなくなった、有名作家などが、後押しして、何やら、命に別状の無いことを、書き付けて、その本が売れているというから、益々、救いようが無い。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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