2008年12月18日

神仏は妄想である 183

釈迦仏陀の、生きていた、2500年前は、文字がなかった。
人が人へ、思いを伝える手段は一つ、口伝えである。

言葉は、音波となって、相手に伝わり、そして、言葉は消滅する。
聞き逃したり、忘れると、それっきりである。
聞いて覚えるという、作業が、思想を伝達する、唯一の道だった。

釈迦仏陀の教えは、そういう状態の中で、師匠と弟子によって、受継がれ、伝えられていった。
伝言ゲームである。

もし、誰かが、一度間違うと、そのまま、次に伝えられる。
誤りだと、気づかないままである。

丸ごと暗記しようとする、弟子たちの、緊張感は、堪らないものだったと、察する。

更に、釈迦仏陀が、来ていると、知れ渡ると、何日も、歩いて、釈迦仏陀の元に、話を聞きに来る。
一度聞いた教えを、一生かけて、咀嚼した人もいるだろう。

何度も、釈迦仏陀の言葉を、反芻するうちに、何事かに、気づくのである。その、気づきを、悟りというなら、理解する。
そして、それは、その人だけのものである。
悟りは、その人による。

現代は、文字も、映像も、ありとあらゆるものが、保存できる。
当時のことを、想像するのは、至難の業である。

更に、多くの情報に、晒されて、我を、見失うこともある。
しかし、そこに、最初で、最後だという、危機感はない。
いつかと、思いつつ、人生を過ごす人もいる。

情報の価値判断をするのは、誰でもではない、私である。

文字に記録することが、できるようになって、私は、聞いたと、経典を書くようになる。

ここで、重大なことは、それを、書くという人の行為である。
書くという、行為には、作為が生ずる。
更に、である。書かれたものを、どのように受け入れるかということでも、その言葉は、分離する。

文明は、進化したと、判断する場合と、堕落したと、判断する場合がある。

耳で聞いた言葉を、反芻して、我が物とすることが、それを、書くということは、一つの堕落である。

記録されたものだけが、正しいと言う、恐ろしい、独善にも、陥る。

書かれたものに、釈迦仏陀の、息遣いが、書かれることは、ない。

更に、書かれたものを、解釈するという、堕落が生まれる。
その、堕落が、論争を生む。
釈迦仏陀は、自分の言葉で、人が、論争するなどとは、考えてもいなかったであろう。
釈迦仏陀の言葉は、釈迦仏陀、生存によって、保たれ、その、寂滅によって、終わった。

初期仏典でさえも、釈迦仏陀の言葉の、切れ端である。
寝惚けたような、言葉の羅列が、続く。
そして、繰り返しである。
それは、伝えた者たちが、繰り返し、反芻したからである。

暗唱するために、唱えるとい行為が、生まれる。

大乗仏典に至ると、読経するという、行為自体が、信仰行為となるという、堕落である。
言葉にして、観念にするという行為は、釈迦仏陀の、教えと、真っ向から、対立する。

釈迦仏陀は、行為することを、伝えたのである。
人は、行為によって、成るものに成ると語った。

文字にせよとは、言わない。

修行者の、行為によって、釈迦仏陀の教えが、込められる。
つまり、行為、所作である。

理屈は、無い。
その行為、所作に、込められる、釈迦仏陀の教えなのである。

それを、小乗として、差別する、大乗の、大きな誤りは、甚だしい。

日本の伝統である、神道、この場合は、古神道であるが、所作しかない。
行為、所作によってでなければ、その奥の心が、解らない。
しかし、理屈を、好む者たち、所作の、煩雑さを嫌い、言葉を、欲して、神道には、教義が無い云々という。

伝統には、教祖も、教義も無い。
あるはずがない。
伝統なのである。

村祭りで、盆踊りをする。
意味は無い。
しかし、それを、始めた先祖たちには、深い意味があった。
なき先祖たちと、一緒に踊るというのである。
亡き人の霊を、呼んで、共に、踊って過ごすという。
それを、供養という言葉で、表すと、堕落する。

行為のみで、その意味を成しているという、伝統というものも、大切さをこそ、伝えて知らせるべきなのである。

様々な、民族の儀式に、長年に渡り、培ってきた、先祖たちの深い思いを、観る。

そこに、余計な言葉は、無い。
言葉で、語り尽くすという、宗教というものは、皆々、嘘である。

行為によってでなければ、その心は、表せない、知ることはない。

盆踊りに、参加してみて、はじめて、解ることがある。
見ていては、解らない。
見よう見まねで、子供たちが、踊りを覚えて、参加するようになり、先祖の思いを、感得する。
そこに、言葉は、無い。
ある訳が無い。

行為の中に込められた秘密があるのである。

拍手を打ち、深く礼をする。という、行為の中に、自然に対する畏敬の思いを、起こし、更に、その自然に隠れた先祖たちに、対するという、心である。

神とか、仏という、観念によって、成り立った神や仏ではない。

深く感じ入るものに、対する所作、行為によってでしか、解らないのであると、先祖たちは、気づいていた。

日拝という、太陽を拝する行為に、意味を、云々と、つけなかった。
誠のものには、言葉を使用してはいけないと、心得ていた。

夜の闇の中で、朝の太陽の光は、そのまま、命の元だった。
それを、理屈なく、そのまま、拝する。
なんと、見事な行為、所作であろう。

言葉は、行為を、補足するために、最低限使用されるものである。

言葉巧みな者を、注意して見なければいけない。
大半が嘘である。
いや、何一つ、誠が無い。

誠は、行為によって、成就する。

まこと、まアこオとオ、とは、真ん中の事である。
真事である。
しかし、しんじつと、読むと、誤る。

真実と読めば、それだけで、しんじつというものが、解ったと、錯覚する。
太陽を拝して、はじめて、まこと、ということが、解る、感じることが、できるのである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。