2008年12月16日

神仏は妄想である 181

原始ジャイナ教を見ることにする。

当時、様々な思想が対立し、争っていた。
マハーヴィーラは、その中で、事物に関して、絶対的な、あるいは、一方的な判断を下してはならないと、教えた。

事物は、様々な立場から、多方面にわたって、考察すべきである。

もし、判断を下す場合は、或る点から見るという、制限をするべきであると。

例えば、事物は、実体、または、形式という点から見ると、常住であると言い得る。
状態、内容という点から見ると、無常であると、言い得る。
すべては、相対的に、言い表し、相対的に、解するべきである。

これを、見方といい、ジャイナ教は、不定主義、あるいは、相対主義と、言われる。

マハーヴィーラは、ヴェーダ聖典の権威を、否定し、更に、バラモンの祭祀は、無意義、無価値であると、主張した。
そして、祭祀における、獣を殺すことを、罪であると、言い切るのである。
また、階級制度に、反対した。
合理主義的立場に立ち、あらゆる人間が、あらゆる時、あらゆる所においても、奉るべき、普遍的な法、ダルマがあると、主張した。

生き物は、生き物を、苦しませる。見よ、世間における大いなる恐怖を。・・・・・
かれらは無力なる弱き身体もと破滅に趣く。

マハーヴラは、この苦痛から、解脱するために、形而上学的考察を開始する。

宇宙は、大別して、霊魂と、非霊魂から成るとする。
霊魂は、地・水・火・風・動物・植物の六種に存する、六種の霊魂がある。
それは、物質の、内部に想定される、生命力を実体的に、考えたものである。

非冷酷は、運動の条件と、静止の条件と、虚空と、物質との、四つであり、霊魂と合わせて数えるときは、五つの実在体とする。

非常にすぐれていることは、或る場合は、時間を一つの実在体と考え、六つを、想定する。

時間というものを、哲学すれば、ノーベル賞ものである。
いまだに、時間というものを、人間は、把握していない。
それは、魚が、水に生きるということを、知らないように、人間も、時間というものを、知らないのである。

人間は、時間の実在を知覚することは、出来ないのである。
私が救いというものを、唱えるならば、時間の実在の知覚を、言うだろう。

生命は、時間という、空気の中に浸り、空気という、媒体に取り込まれて、生きているという、実感を感じ取れないでいる。

この、空気は、水とでも、風とでも、何とでも言っていい。

あらゆる、哲学、思想なるもの、そして、学問全般、宗教でさえ、時間というものを、知覚できないでいる。

時間を超越するという、宗教の悟りというものは、ヒステリーである。
単なる、妄想である。

さて、続ける。

虚空は、大空所である。
この中に、他の諸々の実在体が存在する。
時間は、単一にして、永遠であり、空間的拡がりを有しない。
物質は、無数に、存在し、多数の物体を構成し、場所を占有し、活動と下降性を有する。

物質は、原子から構成されているが、原子は、部分を有せず、分割し得ず、また、破壊することもできない。

原子それ自体は、知覚され難いものであるが、それらが、集合して、現実の知覚され得る、物質を形成する。

世界というものは、これらの、実在性によって、構成され、大初に、宇宙を創造したり、あるいは、支配している主宰神などは、存在しない。

人間の身体が、活動し、身・口・意の、三業を現ずると、その業のために、微細な物質が霊魂に、取り巻いて付着する。
これを、流入と言う。

その、微細な物質が霊魂を囲んで、微細な身体を形成し、霊魂を束縛し、霊魂の本性を、覆っている。

これを、繋縛 けばく、と呼び、これにより、諸々の霊魂は、地獄、畜生、人間、天上の四迷界にわたって、輪廻するという。

業に、束縛された、悲惨な状態を脱し、永遠の寂静に達するために、一方では、苦行によって、過去の業を滅ぼし、他方では、新しい業の流入を防止して、霊魂を浄化する。
そして、本性を、発現させるというものである。

これを、制御といい、それを、実行するには、出家して、修行者になり、一切の欲望を捨てて、独身の遍歴、遊行生活を行うことを、勧める。

この、修行者を、比丘と称し、托鉢乞食の生活を行うのである。

多数の戒律があるが、特徴的なものは、不殺生、真実語、不盗、不淫、無所有である。

不殺生は、特に重大な、戒律だった。
生き物は、命を愛するものである、ゆえに、命を傷つけることは、最大の罪悪である。

無所有というのは、徹底して、一糸もまとわない裸体で、修行する者もいた。

後に、白布をまとうことを、許される、白布派と、裸体のままの、裸形派に分かれる。
保守的な、裸形派は、なんと、断食による、死が、極度に称賛される。

修行に当たり、自己力のみを頼り、一切の、救済者、救い主を期待しない。

上記、あるところまでは、受け入れられるが、極端に行く着くところが、受け入れ難い。

同じ時期に、釈迦仏陀は、極端を嫌い、中道の道を説く。

余談であるが、三蔵法師玄奘が、天竺に渡った頃は、まだ、ジャイナ教の修行者がいて、
面白い修行法をしている者多数と、その、旅日記に書いている。

ところが、仏教と、共に、ジャイナ教も、インドでは、壊滅する。
それは、共に、殺生戒があるからである。
殺しをしない。

殺しをする、宗教が、台頭してくると、彼らは、殺されたのである。

それでは、この信者は、どのように、行為したのかを、見ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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