2008年11月27日

もののあわれ338

つとめて中将の君、
「いかに御覧じけむ。世に知らぬみだり心地ながらこそ。
 もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや

あなかしこ」
とある御かへり、目もあやなりし御さまかたちに、見給ひしのばれずやありけむ。
「からひとの 祖度ふることは 遠けれど 立ち居につけて あはれとは見き
大方には」
とあるのを、かぎりなうめづらしう、「かやうの方さへたどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやられる、御后の言葉の、かねても」と、ほほえまれて、持経のやうにひきひろげて見居給へり。



翌朝、源氏から、藤壺に、どのように御覧になりましたか。生まれてはじめて、苦しい気持でした。
物思いのために、人前で、立ち舞うことなど、できそうにない私が、袖翻して、舞った心のほどを、理解されましたか。
恐れながらと、ある。
そのお返事は、目にも、鮮やかな、あの舞や、お顔を、そのまま、見過ごすことが、できなかったようであり、
異国の人が、袖を振ったという故事は、知りませんが、お手振りは、結構に思いました。
私なりに、拝見させて頂きましたと、あり、それは、舞楽のことにも、詳しく、異朝のことまでに及ぶ言葉は、后の資格があると、源氏は、自然に、微笑みて、経典のように、それを、広げて、御覧になるのである。

源氏は、藤壺の懐妊のことで、世に知らぬみだり心地ながらこそ、とい。
それは、生まれたはじめての、苦しい気持だったのである。

その心地が、物思ひ、になったのである。
乱れる心なのである。
乱れた心のままに、人前で、舞う心境ではなかった、のである。

この、乱れた心が、次第に、明確になってゆく。



行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつり給へり。東宮もおはします。例の楽の船ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗とつくしたる舞ども、くさ多かり。楽の声、鼓の声、世をひびかす。



行幸には、宮様たちをはじめ、宮廷上げて、お供申し上げた。
東宮も、お出でになる。
いつものように、船に楽人を乗せて、漕ぎ巡り、唐のもの、高麗のもの、様々な舞がある。
管弦が鳴り響き、鼓が鳴り響く。

ここで、鳴り響くを、声という。
音の響きを声という。
日本人は、音を、左脳の言語脳で、聴くのである。
欧米人は、音楽や、音をすべて、右脳、感受性の脳で聴く。

ここが、大きな違いである。
自然のすべの音も、日本人には、声なのである。
だから、自然のすべてのものが、歌を歌うという、表現をする。

音を、声と認識するのである。

風の音も、声なのであり、それは、風が、語るという。
ここに、根本的な、民族性の差がある。
これを、理解した上で、音楽というものを、語らなければ、両者共に、話が合わない。

日本の音楽は、語りである。
西洋音楽は、音である。

西洋人には、自然の音が、ただ、煩い音になる。
日本人は、自然の音が、物を語るのである。



一日の源氏の御夕影、ゆゆしうおぼされて、御ずきょうなど所々にさせ給ふを、聞く人もことわりとあはれがり聞ゆるに、東宮の女御は、あながちなり、と、にくみ聞え給ふ。垣代など、殿上人・地下も、心殊なりと世人に思はれたる、有職のかぎりととのへさせ給へり。宰相二人、左衛門の督、右衛門の督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、世になべてならぬをとりつつ、おのおの籠もり居てなむならひける。




この日、試楽の日の、夕映えに映えた源氏の姿の、美しさに、危惧を感じた帝は、諸寺に申し付けて、読経をさせた。それを、漏れ聞く人々は、もっともなことだと思うが、一人東宮の御母、女御ばかりは、大仰なことと、憎むのである。
楽人など、殿上人、地下、ぢげを問わず、優れていると、世に評判の達人ばかりを、選りすぐって、揃えた。
宰相二人と、左衛門の督、さえもんのかみ、右衛門の督の左右の楽団を指図する。
人々は、前々から、世に優れた師匠を招いて、皆々、練習したのである。

源氏の御夕影、ゆゆしうおぼされて
ここに、何か、問題がある。

それが、あまに、美しすぎて、帝が、寺寺に命じて、読経させるというのである。
夕日に映える源氏の姿の美しさは、ゆゆしう、ものがあるのか。

美しさに、危惧を覚えたとは、何かである。
物語が、進むにつれて、それが解ってくるのだろう。

また、それに対して、帝の処置に、東宮の御母、女御が、憎く思うのである。
これも、意識に留めて置きたい。



木高き紅葉のかげに、四十人の垣代、いひ知らず吹き立てるものの音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞えて吹きまよひ、色々に散りかふ木の葉の中より、青海波のかがやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。



小高い、紅葉のかげで、四十人の楽人たちが、いいようもなく、演奏する楽の音に、相和した、山の松風は、これこそ、まことの、深山降ろしとばかりに、吹き、色とりどりに散る、木々の葉の中から、青海波が、舞い出た様は、素晴らしいばかりの、美しさである。



いひ知らず吹き立てるものの音どもにあひたる松風
色々に散りかふ木の葉の中より
これは、原文の言葉の力である。
音ども、と、ここでも、どもと、擬人化する。

このように、自然を理解していたということである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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