2008年11月20日

もののあわれ361

日たけ行きて、儀式もわざとならぬ様にて出で給へり。暇もなう立ちわたりけるに、よそほしう引き続きて立ちわづらふ。よき女房車多くて、ざふざふの人なきひまを思ひ定めて、皆さしのけさする中、あんじろの少しなれたるが、下簾の様などよしばめるに、いたう引き入りてほのかなる袖口、裳の裾、かざみなど、物の色いと清らにて、ことさらにやつらたる気配しるく見ゆる車二つあり。「これは、さらにさやうにさしのけなどすべき御車にもあらず」と、口ごはくて手触れさせず。いづかたにも若き者ども、えひ過ぎ立ち騒ぎたる程のことはえしたためあへず。おとなおとなしき御前の人々は、「かくな」などと言へど、えとどめあへず。




日も高くなっているので、外出の儀式も格式張らず、葵の上の一行は、お出かけになった。
物見車が、混雑して立ち並んでいる。
それらは、美しく並んでいるが、車の置き場に困っているようである。
立派な女房車が多く、車沿いの、人のいない空き地を見つけ、ここにと思い定めて、あたりの車を皆、退けさせる中に、網代車で、真新しくはないが、下簾の様子など、乗り主の、趣味が伺えて、乗り手は、車の奥に、ちらりと見える、袖口、裳の裾、かざみ、など、色合いも、こざっぱりとして、わざと目立たぬようにしている様子の、車が二台ある。
これは、全く、押し付け退ける車ではないと、言い張り、手を触れさせない。
どちらも、若い者どもが、酔い過ぎて、立ち騒いでいる時は、鎮めることなど、できない。
年配の、前駆の人々は、そんなことは、するなと言うが、とても、制しすることができない。


あんじろ
車の簾の中に掛けて、下に長く垂らす、白絹である。

よしばめる
教養が、現われる様である。




斎宮の御母御息所、「ものおぼし乱るる慰めにもや」と、忍びて出で給へるなりけり。つれなしづくれど、おのづから見知りぬ。男「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿をぞ豪家には思ひ聞ゆらむ」など言ふを、その御方の人も交れれば、「いとほし」と見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔を作る。




これは、斎宮の御母、御息所が、物思いに乱れて、心の慰めにもなろうかと、こっそりと、出られた車である。
気づかれないようにしているが、自然に、御息所と解る。
男は、それくらいの車に、そんなことを言わせるな。大将様を御大家として、頼みにしているのだろう、などと言うのを、大将方、つまり、源氏方の、人々も、御供に交じっているので、御息所を気の毒と思いつつも、仲裁するのも、煩わしいと、知らぬ顔をする。





つひに御車どもたて続けつれば、ひとだまひの奥におしやられて、もの見えず。心やましきをばさるものにて、かかるやつれをそれと知られぬるが、いみじう嫉きこと限りなし。しぢなどもみな押し折られて、すずろなる車の筒にうちかけたれば、またなう人わろく、悔しう、「何に来つらむ」と思ふに、かひなし。「ものも見で帰らむ」とし給へど、通り出でむ暇もなきに、「事なりぬ」と言へば、さすがに、つらき人の御前わたりの待たるるも、心弱しや。笹の隅にだにあらねばにや、つれなく過ぎ給ふにつけても、なかなか御心づくしなり。



とうとう、大臣の車を、立て続けたので、お供の衆の車の後へ、押しやられて、何も見えない。
胸の痛みは、言うまでもないことである。
この、忍びの姿を、それと知られたくないが、この上もなく、悔しい気持である。
車を立てるために、ながえを乗せる、しじ、なども、皆押し折られて、轅、ながえ、を、他の車の、こしき、に、打ち掛けてあるため、体裁が悪く、それが残念で、何のために、出て来たのかと思う。
今更、詮無いことである。
何も見ずに、帰ろうとするが、抜け出す隙間もない時、行列が来たと、言うので、恨めしい方の、お通りを、このような形で、待たされるとは、と、女心の弱いことである。
ここは、笹の隈でもないからか、馬も止めずに、見向きもせずに、通られるにつけても、かえって、尽きぬ、物思いの、種となるのである。

葵の段の、車争いの部分である。
御息所は、非常に傷ついてしまうのである。



げに常よりも好み整へたる車どもの、我も我もと乗りこぼれたる下簾のすきまどもも、さらぬ顔なれど、ほほえみつつ、しり目にとどめ給ふもあり。大殿のは著ければ、まめだちて渡り給ふ。御供の人々うちかしこまり、心ばへありつつ渡るを、おしけたれたる有様、こよのうおぼさる。

御息所
かげをのみ みたらし川の つれなきに 身のうきほどぞ いとど知らるる

と涙のこぼるるを、人の見るもはしたなけれど、目もあやなる御様かたちの、いとどしういでばえを見ざらましかば、とおぼさる。




以前に話したように、いつもより、趣向を凝らした、数々の車の、下簾の、隙間、隙間にも、そ知らぬ顔をされながら、源氏は、にっこりとして、流し目に、御覧になることもある。
大臣家の、車は、はっきりと、解るので、真面目な顔をして、通る。
御供の衆も、敬意を表して、気をつけて、通るので、御息所は、惨敗したような気分で、我が身を、この上なく、哀れと、思うのである。

御息所
御祓の行われる今日、御手洗川で、お姿を遠くから、見たが、君の無情に、我が身の、不幸を、更に深く思い知らされる。

と、涙のこぼれるのを、人が見るのは、きまり悪いが、眩いばかりの、御姿の、常よりも、いっそう美しく、晴れ晴れとして、お引き立ちなのを、もし、見ずにいたなら、どんなにか、残念だろうかと、思うのである。

笹の隈にだにあらばにや
古今集
笹の隈 ひのくま川に 駒とめて しばし水かへ かげをだに見ん
からの、笹の隈、である。

みたらし川
み、と、影をのみ見、の、見を、かけている。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第9弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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