2008年11月07日

もののあわれ318

ほのかに掻き鳴らし給ふ、をかしう聞ゆ。何ばかり深き手ならねど、物の音がらの筋殊なる物なれば、聞きにくくも思されず。いといたう荒れ渡りて、さびしき所に、「さばかりの人の、古めかしう、所狭く、かしづきすえたりけむ名残なく、いかに思ほし残すことなからむ。かやうの所にこそは、昔物語にもあはれなることどももありけれ」など思ひ続けても、「物や言ひ寄らまし」と思せど、「うちつけにや思さむ」と、心恥ずかしくて、やすらひ給ふ。




かすかに、お弾きになる音は、結構に聞える。
第一級のお手並みとは、いかないが、琴の音は、その物自体が、格別のものなので、聞きにくいとも、思われない。
一面、荒れ果てた、寂しい所で、かつては、常陸の宮ほどのお方が、昔風に、仰々しく大事に育てただろう。が、今は、その跡形もなく、姫君は、色々と悩みの多いことだろう。
こんな所でこそ、昔の物語でも、心に染みるものが、感じられるのだ。などと、思い続けて、言葉を掛けたい気持もあるが、不躾であろうと、気後れがするのである。

心恥ずかしく
躊躇う気持。
初心、うぶ、である。
源氏の中には、まだ、初心な気持がある。

あはれなることどもありけれ
人生は、そののみである。
あはれ、なることども、で、満ち溢れている。
思い出は、嬉しいものでも、思い出として、思う時、それは、悲しみがつきまとう。
その、悲しみは、また、愛しみ、とも書く。

歳月は、人の心に、慈しみの心を作る。



命婦かどある者にて、いたう耳ならさせ奉らじと思ひければ、命婦「曇りがちに侍るめり。客人の来むと侍りつる、いとひ顔にもこそ。いま心のどかにを。御格子まいりなむ」とて、いたうもそそのかさで、帰りたれば、源氏「なかなかなる程にても止みぬるかな。物聞き分く程にもあらで、ねたう」と、宣ふ気色、をかしと思したり。源氏「同じくは、け近き程の立ち聞かせさせよ」と、宣へど、心にくくて、と思へば、命婦「いでや、いとかすかなる有様に思ひ消えて、心苦しげにものし給ふめるを、うしろめたき様にや」と、言へば、「げに、さもあること。にはかにわれも人もうちとけて語らふべき人の際は際とこそあれ」など、あはれに思さるる人の程なれば、源氏「なほ、さやうの気色をほのめかせ」と、語らひ給ふ。




命婦は、気の利いた者で、あまり長くは、聞かせない方がいいと思い、空が曇ってきました、実は、お客様が来ることになっていましたが、こうして居まして、わざと避けているように思われましても、また後で、ゆっくりと、お聞かせ下さい。御格子を、下ろしますと、程よいところで、切り上げた。
源氏のところに、戻ると、源氏が、惜しいところで、やめたものだ。良し悪しを聞き分ける間もなく、残念だと、仰る様子は、興味を感じているのである。
同じ聞くのなら、もう少し、近くで、聞きたいものだと、仰るが、命婦は、床しく思われたところで、止めておこうと思う。
いでや、いとかすかなる有様
いえいえ、お心細いお暮らしで、お心も、弱り、可愛そうでございます。
うしろめたき様にや
気が咎めますので。
と言うと、源氏は、そうだな、すぐに気兼ねなく話をする者は、身分の低い者。などと、気の毒に思われる姫の、身の上であると、思う。
源氏は、それでは、私の気持を伝えておくれと、仰る。



また契り給へる方やあらむ、いと忍びて帰り給ふ。命婦「上の、まめにおはしますともてなやみ聞えさせ給ふこそ、をかしう思う給へらるる折々侍れ。かやうの御やつれ姿を、いかでかは御覧じつけむ」と聞ゆれば、たち返り、うち笑ひて、源氏「異人の言はむように、
咎なあらはされそ。これをあだあだしきふるまひと言はば、女の有様苦しからむ」と宣へば、あまり色めいたり、と思して、折々かう宣ふを、恥ずかしと思ひて、ものも言はず。



他に用事でもあるのか、目立たぬように、帰られる。
命婦が、主上が真面目に過ぎますと、案じていましたが、おかしくなってしまう時が、随分ありました。こんなお忍びの姿を、よもやお見かけすることは、ないでしょうと、申し上げると、源氏が、引き返してきて、笑いながら、他の人ならば兎も角、あまりはっきり言うな。私を派手な振る舞いと言うなら、女の浮気は、もっと、見苦しいだろうと、仰るので、命婦は、自分が、尻軽な女だと、時々おっしゃるので、そう思われたと思い、きまり悪く、沈黙した。


命婦の、上というのは、源氏の父、天皇のこと。
主は、源氏が、真面目だと思っているのである。
それなのに、今夜の姿を見たら・・・いや、見ることは、ないでしょうと言う。
そこで、源氏は、やり返すのである。

このような、細やかな、問答を書き綴るという、紫式部の筆である。
見事というしかない。

御やつれ姿
身分を隠して、粗末な衣服を着るということ。

あだあだしきふるまひ
派手な振る舞いで、まめまめしいという、細かな振る舞いの、逆である。

あまり色めいたり
色めき、つまり、恋多き、奔放なという感触、意味の言葉である。

命婦は、源氏に、時々、そのように言われるのだろう。

アメリカ人の、日本文学研究者である、ドナルド・キーン博士は、太平洋戦争の時に、源氏物語を読んで、非常に感動したという。それは、戦争の無い太平の時代の物語があるという、驚きだったという。
確かに、源氏物語には、戦争の場面は、皆無である。

淡々と、貴族社会の、安穏振りを書き綴っているのである。
これを、色恋の物語であると、決め付けてしまい、その価値を見出せなかった人もいる。
ところが、この物語に、流れる、もののあはれ、というものを観た人は、驚嘆したのである。

もののあわれは、こうこうこういうものですという、論理ではなく、物語の中に、書き込んだということである。
そして、それは、日本の文化、精神史に、強く残り、様々な、文化の表現方法が、その、手法で、もののあわれ、というものを、尋ねているという、風情である。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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