2008年11月05日

もののあわれ316

末摘花 すえつむはな

源氏、十八歳から十九歳である。

思へどもなほ飽かざりし夕顔の露におくれしここちを、年月経れど思し忘れず、ここもかしこも、うちとけぬ限りの、気色ばみ心深き方の御いどましさに、け近くうちとけたりしあはれに似るものなう、恋しく思ほえ給ふ。



思い出し、思い出ししても、飽きることなく、夕顔が露のように、消えてしまったことを、年月を経ても、忘れることができない。
他の女は、気を許さない者ばかりで、気取りや、思慮深さの張り合いである。
夕顔は、親しみがあり、隔てもなかった。あの、可愛い夕顔に、似た者は、いないと、恋しく思い出す。

あはれに似るものなう
いかに、似た者がいないかという、強調である。
それを、あはれ、という言葉で、表現する。

夕顔が、亡くなったことを、露におくれしここちを、と、表現する。
原文は、まさに、名文である。
原文が、そのまま、もののあわれ、というものを、描くのである。




「いかで、ことごとしき覚えはなく、いとらうたげならむ人の、つつましきことなからむ、見つけてしがなし」と、こりずまに思しわたれば、すこしゆえづきて聞ゆるわたりは、御耳とどめ給はぬ隈なきに、さてもやと思し寄るばかりの気配あるあたりにこそは、一行をもほのめかし給ふめるに、靡き聞えずもて離れたるは、をさをさあるまじきぞ、いと目慣れたるや。つれなう心強きは、たとしへなうなさけおくるるまめやかさなど、あまり物の程知らぬやうに、さてしも過ぐしはてず、名残なくくづほれて、なおなおしき方に定まりなどするもあれば、宣ひさしつるも多かりけり。


なんとか、大そうな身分ではなく、可憐な、気兼ねのいらない、人を見つけたいものだと、性懲りも無く、思うのである。
そう、思っているのは、作者である。
こりずまに思しわたれば、とは、作者の意見であろう。
すこしゆえづきて聞ゆるわたりは
何か少しでも、噂があれば、聞き捨てにされないで、云々。
これならと、思われる所には、手紙をやってみる。
それを、振り切る人は、まずもっていないとは、新鮮な思いが、しないのである。と、作者が、顔を出している。
と言っても、すげなく、気の強いのは、言いようも無く、気持の荒い堅苦しさなどは、身の程知らずも、甚だしいが、結局、そのままに通すこともせず、昔の強さは、どこへやらで、妻の座に、片付いてしまう女もいる。
言い寄ったままで、やめることも、多々あった。

このように、源氏を、どうしょうもない男のように、書きつけるのである。
懲りもせずに、色々と、女を物色するのである。

物語の毒は、これである。
性懲りも無く、女を捜し続けるという、男の姿。
更に、一人や二人ではない。数限りない。
そのような男の、姿を、千年前に、物語にするという、根性は、大したものだ。
今も、男は、この闇から、抜けられないでいるし、また、これからも、続くであろう。それを、見抜いた紫式部である。

男の問題は、すべて、ここにある。

散文小説は、源氏物語の、一部をテーマに書かれる。
例えば、江戸時代の、井原西鶴は、そこで、色事のみに、焦点を当てて、書き付けた。
源氏物語を読むことのない、作家というものも、この物語の潜在的、言葉の伝統に、あるのである。

何故なら、漢字かな混じり文の、先駆けが、源氏物語であり、その延長にあるからだ。

源氏物語を、読み通して、なお、小説を書きたいと思うか、否かである。

時代や、設定が、変わるが、問題の質は、変わらない。
矢張り、千年を経た物語だと、言える。



かの空蝉を、物の折々には、ねたう思し出づ。萩の葉も、さりぬべき風の便りある時は、おどろかし給ふ折もあるべし。火影の乱れたりし様は、またさようにても見まほしく思す。おほかた、名残なき物忘れをぞ、えし給はざりける。



かの空蝉とは、ははぎ、のこと。空蝉のヒロインである。
萩の葉とは、空蝉の、継娘で、軒端の萩である。

あの空蝉を、思い出して、癪にさわる時もある。
萩の葉も、適当な時を見つけて、お手紙をやることも、あるだろう。
灯火の光に、見た、打ち解けた姿を、もう一度、見たいものだと、思う。
何事も、忘れることが、出来ない方なのである。
と、作者の、感想である。

源氏の、容姿は、見えないが、源氏という、男のあり様、心のあり様が、次第に、見えてくる。
容姿は、兎に角、美しいの、一点張りである。決して、具体的な、ことは、書かない。
それは、つまり、嘘の話なんですよ、と言っているのである。

この、段の、末摘花は、その容姿を、容赦なく、描く。
その、醜い様を、これでもかと、書く。

女だから、女に容赦なく、書けるというものではない。
更に、源氏の容姿を、曖昧模糊とするのである。
そこに、作者、紫式部の、魂胆がある。

私は、人間の、あはれの様を、描いているのです、よ、という、強烈なメッセージである。
更に、人間のみならず、あはれ、という、風景からは、何物も、逃れ得ないのです、というのである。
私も、その、もののあわれ、というものを、見詰めている。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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