2008年11月04日

もののあわれ315

かのとまりし人々、宮わたり給ひて尋ね聞え給ひけるに、聞えやる方なくてぞ、侘びあへりける。「しばし人に知らせじ」と、君も宣ひ、少納言も思ふ事なれば、せちに口がためやりたり。ただ、「行方も知らず、少納言がいて隠し聞えたる」とのみ聞えさするに、宮もいふかひなう思して、「故尼君も、かしこにわたり給はむ事を、いとものしと思したりし事なれば、乳母の、いとさしすぐしたる心ばせのあまり、おいらかに、わたさむを便なし、などは言はで、心にまかせて、いてはふらかしつるなめり」と、泣く泣く帰り給ひぬ。




若君なき家で、残った女房たちは、宮様の、お越しになっての、お尋ねに、お返事のしようもなく、皆、困惑した。
しばらくは、誰にも、知らせるなと、君も言う。
少納言も、同じ考えである。
固く口止めをして、ただ、どことも知れず、少納言がお連れましたとだけ、申し上げるので、宮も、どうしようもなく、亡くなった尼君も、あちらに、引き移ることを、嫌っていたゆえ、乳母が、考えて、お渡しするのは、困るとは、言わずに、自分の考えで、連れて行ったのであろうと、泣き泣き、お帰りになった。

源氏が、女房たちに、口止めしたのである。そして、乳母である、少納言も、同じ考えである。



父宮「もし聞き出で奉らば告げよ」と宣ふもわづらはしく。僧都の御もとにも尋ね聞え給へど、あとはかなくて、あたらしかりし御かたちなど、恋しく悲しと思す。北の方も、母君を憎しと思ひ聞え給ひける心も失せて、わが心にまかせつべう思しけるに、違ひぬるは、口惜しう思しけり。



父宮は、もし、居所が、わかったら、報せてくれとの、お言葉も、女房たちには、苦しいものであった。
僧都の元にも、お尋ねになったが、手掛かりもない。
惜しい程の、器量なども、思い出されて、恋しく悲しいと、父宮は、思うのである。
北の方も、若君の母を憎いと思っている気持も、消えうせて、思い通りに、育ててみようと、思っていたが、その、当てが外れたので、残念に思う。


違い
たがい、とは、思うこと、うまくいかないという、意味。




やうやう人参り集りぬ。御遊がたきの童女ちごども、いとめづらかに今めかしき御有様どもなれば、思ふことなくて、遊びあへり。君は、男君のおはせずなどして、さうさうしき夕暮などばかりぞ、尼君を恋ひ聞え給ひて、うち泣きなどし給へど、宮をばことに思ひ出で聞え給はず。もとより見ならひ聞え給はでならひ給へれば、今はただこののちの親を、いみじうむつびまつはし聞え給ふ。物よりおはすれば、まづ出で迎ひて、あはれにうち語らひ、御懐に入りいて、いささか疎く恥づかしとも思ひたらず。さるかたに、いみじうらうたきわざなりけり。



次第に、女房たちが、若君の所に、寄り集まった。
遊び相手の、女の童やも稚児たちも、またとない、珍しい雰囲気、今めかしき、つまり、新しい感覚で、大満足である。
若君は、男君、源氏のことである。が、いらっしゃらない時や、寂しい夕暮れの時などは、尼君を慕い、泣いたりするが、父宮のことを、思い出すこともない。
もともと一緒に暮らしていなかったからか、今は、この後の親、源氏に、すっかり親しんでいる。
源氏が、帰ると、誰よりも、先に出迎えて、嬉しそうに、お話になる。
源氏に抱かれても、嫌がらず、恥ずかしいと、思うこともない。
そうした、遊び相手として、いみじうらうたきわざ、実に可愛らしいのである。




さかしら心あり、なにくれとむつかしき筋になりぬれば、わがここちも、少し違ふふしも出で来や、と心おかれ、人も恨みがちに、思ひのほかの事、おのづから出で来るを、いとをかしきもと遊びなり。むすめなどはた、かばかりになれば、心安くうちふるまひ、隔なきさまに臥し起きなどは、えしもすまじきを、これは、いと様変はりたるかしづきさなり、とおぼいためり。




さかしら心
嫉妬心である。
嫉妬心がつき、何かと、難しい関係になったら、自分の心にも、ぴったりとしないものも、あるかもしれないと、思われる。
相手の女を、恨みもし、それで、思いがけない、離婚ということもある。
これは、しかし、面白い遊びである。
自分の娘でも、これくらいの年になると、気楽に振舞い、馴れ馴れしくすることは、できない。
これは、大変、様変はりたる、かしづきさなり。
つまり、風変わりな、かしづき、秘蔵っ子である。
と、おぼいためり、つまり、と、思ったとか、である。
最後は、作者の、注訳である。


これで、若紫を、終わる。

世界最初の小説に、幼女拉致、偏愛の様が、描かれるという有様である。
兎に角、すべてが初の試みである。
源氏物語にはじまり、源氏物語に終わるという、実に、いつまでも、新鮮な、千年の物語である。

タブーというものを、置かないという意味でも新鮮である。

私は、まだ、誰も発見していない、源氏物語を、見たいと思っている。そして、私の訳は、あくまでも、もののあはれ、という、心象風景を見るためのものであるということである。
訳に、拘る必要はない。
名訳は、多いが、原文には、勿論、適わないのである。
何度も言うが、敬語で、書かれたという意味でも、この物語は、意外性に、溢れている。

紫式部が、扱う物語の人々は、すべて、紫式部より、身分が高いということである。
それも、また、紫式部の、たいした玉であることを、思わせる。

要するに、登場人物を、徹底的に、突き放しているのである。
彼女は、この世に、憂いている。
いつも、心は、憂きことなのである。

日本人の、抑鬱状態をも、最初に発見したのであろう。
そこから、辛うじて、逃れる意味でも、物語の創作が、必要だった。
芸術というものは、そういうことかもしれない。
死ぬまでの、暇潰しの、最良の行為であろう。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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