2008年10月07日

もののあわれ287

うち臥し給へるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君もやがて聞き給ふ。僧都「過りおはしましける由、唯今なむ人申すに、驚きながら候ふべきを、なにがしこの寺に籠り侍りとはしろしめしながら、忍びさせ給へるを、憂はしく思ひ給へてなむ。草の御むしろも、この坊にこそまうけ侍るべけれ。いと本意なきこと」と申し給へり。



横になっていると、僧都のみ弟子が、惟光を、取次ぎを通じて、呼び出した。
広くないところであるから、源氏の耳にも、話し声が聞える。
僧都は、お通りの由、ただいま初めて、人より、承りました。
取次ぎ、急ぎ参上いたすところ、拙僧、この寺に籠もりおりますことは、ご存知でいらせられながらも、ご内密に遊ばしたこと、お怨みに存じまして、差し控えたことです。
旅のお宿も、当寺に、ご用意したしましょう。残念至極の儀との、ご口上である。

憂はしく思ひ給へて
怨みますというのは、二人が、親しい関係なのである。
水臭いと言うのである。

草の御むしろ
藁である。草を敷いた御座所というところである。粗末な、寝床である。



源氏「いぬる十よ日の程より、わらはやみにわづらひ侍るを、度重なりて耐へ難く侍れば、人の教へのままに、にはかに尋ね入り侍りつれど、かやうなる人の、しるしあらはさぬ時、はしたなかるべきも、ただなるよりはいとほしう思ひ給へつつみてなむ、いたう忍び侍りつる。今そなたにも」と宣へり。



源氏は、惟光を、通して、去る十日ほどから、おこりに、悩みまして、何度も、発作を起こし、苦しくて我慢が出来ずに、人の教えに任せて、急に、ここまで訪ねて来ました。
これほどの人が、祈祷をしても、効き目がなかったのは、間の悪さもあり、気の毒と、思いまして、遠慮しました。
それで、隠していたのです。
いずれ、そちらに、参りましょうと、仰った。


ただなる人よりは
普通の行者より。
自分が訪ねる程のことだった。



すなはち僧都参り給へり。法師なれど、いと心はづかしく、人がらもやんごとなく、世に思はれ給へる人なれば、軽々しき御有様を、はしたなうおぼす。かく籠れる程の御物語など聞え給ひて、僧都「同じ柴の庵なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」と、切に聞え給へば、かのまだ見ぬ人々に、ことごとしう言ひ聞かせつるを、つつましうおぼせど、あはれなりつる有様もいぶかしうて、おはしぬ。



折り返して、僧都が、お伺いに来た。
法師ではあるが、たいそう気がおけて、人柄も高いと世間から思われている人であるから、君は、ご自分の、気軽な様子を、きまり悪く思われる。
僧都は、こうして、籠もっている、間のお話をして、わたくしも、同じ柴の庵ですが、少しは、涼しく、泉の流れもございますので、お目にかけましょうと、しきりに、言うのである。
それでは、あの、まだ、自分を見たことのない人々に、仰々しく話して聞かせたことを、恥ずかしく思われるが、可愛らしくいた、女の子の様子も、気がかりで、お出かけになった。


僧都が、先ほど、自分のことを、尼君たちに、話したことを、思い出し、源氏は、恥ずかしく思うのである。
しかし、興味もあり、出向くことにした。


ここで、身分というものの、感覚が解る。
最初は、取次ぎの者が、口上を述べる。そして、次に、本人が現れて、お話する。
それも、兎に角、取次ぎが、必要なのである。
すぐに、直接、言葉を、交わすことは無い。

お連れの者を、通して、まず、対話が始まるのである。
奥床しさである。

礼儀、所作として、それを、皆、身につけていたのである。
手順である。

実は、目上の人に、目を見て、真っ直ぐ話すというのは、失礼なことである。
静かに、視線を下に向けて、目上の人の言葉を聞く姿勢が、好まれる。

目を見て、真っ直ぐに話せというのは、欧米の礼儀作法を、真似てからである。
あちらは、堂々と、自己主張しなければ、成り立たない社会なのである。
しかし、国際化である。
国を出たら、そのようにしなければ、ならない。
言うべきことは、言うという、姿勢が、国際化の、第一歩である。
しかし、日本人としては、実に、しんどい、作法である。

場の空気で、日本人は、察するという、能力に冴える。
だが、あちらでは、それが通用しない。
言葉に、しなければ、解らないのである。

空間の美学というものが、日本美学にはある。
それは、人間関係にも、あるのだ。

日本人が、相手の目を見て話す時は、命をかける時である。
武士ならば、刀に手をかける時である。

源氏物語は、身分の高い方に対して、すべて敬語で、書かれている。
私の訳は、それを、時に無視している。
であるから、源氏物語を、読めば、自然に、敬語の語感を、知ることになる。

古語の語感てあるが、それは、敬語の基礎である。
語感というものに、言葉の意味があることを、日本人は知っていた。
光る源氏という、言い方は、敬語なのである。
光るが、尊敬語になっている。尊称になっている。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。