2008年10月07日

神仏は妄想である 166

浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏と思ひて、救主を捨てたり。禅宗は、下賎の者、一分の徳有りて父母を下ぐるがごとし。仏をさげ、経を下す。これ皆、本尊に迷へり。
日蓮

日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱を倒すなり。只今に自界反逆難とて、どうしうちして、他国侵逼難とて、この国の人々他国に打ち殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺、寿福寺、極楽寺、大仏、長楽寺等の一切の念仏者、禅僧等が寺搭をば焼きはらひて、彼らが頸を由比の浜にて切らずば、日本国必ずほろぶべし。
日蓮

これは、真っ当な感覚か。

仏法と、言いつつ、頸を刎ねろとは、恐れ入る。
日蓮は、完璧に、仏法というものを、知らないのである。

仏陀の、教えを知らない者が、平気で、仏法を語ることが、出来る時代性だったといえる。

勿論、頸を刎ねられることになったのは、自分である。
そして、それを、今度は、だから、我は、正しい。
迫害があるから、こそ、法華経の行者たるものと、言う。

ここ、ここに至ると、弁明の余地なし。

何故、このように、なったのか。
つまり、イッてしまったのか。
精神分析が必要である。

それは、省略する。

ともかく、これを、始祖として、日蓮宗なる、教団があるということであり、更に、新興宗教系には、この日蓮の、考えを継ぐ者が多い。

更に、である。
日蓮教学というから、笑うしかない。

だから、私は、これに、引き続き、長くなるが、法華経というものを、見ることにする。
その前に、日蓮の別の顔を、見ることにする。
そこに、だけ、日蓮の人間性が、ある。

手紙である。
象徴的な、文を載せる。

人は生まれて死するならひとは、智者も愚者も上下一同に知りて候へば、始めてなげくべし、おどろくべしとはをぼえぬよし、我も存じ、人にもをしへ候へども、時にあたりて、ゆめかまぼろしか、いまだわきまへがたく候。まして母のいかんがなげかれ候らむ。

弔いの言葉である。
実に、情に篤く、悲しみを共に悲しむ人かと、思う。
日蓮の、手紙は、見事であり、そして、大和言葉である。

身延入山後の生活は、凍死、餓死の危険もあった。
その時、信者からの供養を受けて、餅九十枚、山芋五十本を送られた時の手紙である。

去年の十一月より冬積もりて、山里路たえぬ。年返れども、鳥の声ならでおとづるる人なし。友にあらずば誰か問ふべきと心細くして過し候ところに、元三の内に、餅九十枚、満月の如し。心中も明らかに、生死の闇も晴れぬべし。あはれなり、あはれなり。

日蓮の信仰は、本当は、こうだったと、思えるのである。

始祖たちが、結局、大和心に、戻り、仏法というものを、理解したと、私は、考える。
つまり、鎌倉という、舞台で、皆々、それらを、演じたのである。

更に、日蓮の、面目が、自己反省の文にある。

日蓮も又かく責めらるる先業なきにあらず。・・・
日蓮今生には貧窮下賎の者と生まれ、センダラが家より出たり。心にこそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。

法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。

センダラとは、漁師の家である。

ここを見ると、日蓮は、イッてはいたが、正気であったと、思える。

何度も言うが、結局、大和言葉による、文になると、皆々、正気を、取り戻すことである。
つまり、漢語の、漢籍に、やられたということである。
何やら、あたかも、重大なことのような、気分になるという。

私の好きな、手紙の言葉は、
まず臨終を習いて、後に、侘事を成すべき
である。
つまり、死ぬ者であることを知り、その後、人生の諸相を生きるべきだという。

つまり、死ぬことを知れば、後は、死ぬまでの、暇潰しであるというふうに、考えるのである、私は。

門弟にあてた手紙である。
ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひあわせて、南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ。

女房と、酒を飲んで、題目を唱えよ。
苦は苦である。楽は楽である。
苦楽は、共にあると思いつつ、題目を唱えよ。

門弟に、この程度の手紙ならば、実に、理解出来る。
やさしい人柄である。
どこにも、攻撃するものはない。

歴史の人物を見ていれば、その人物の、働きが、その時代が、求めるものだったと、理解する。時代性と、時代精神である。

鎌倉時代は、異常事態だったと、思える。

そしてまた、人は生きるべきようにしか、生きられない、ということである。

ちなみに、日蓮が、国から大師号というものを、与えられたのは、亡くなってから、640年近く後の、大正十年、1921年である。
一番最後に、大師号を頂いている。
国を思うた心が、ようやく、認められたのか。
大師号を、贈られている、僧は、23人いる。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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