2008年10月05日

もののあわれ285

尼君「何事ぞや、童女と腹立ち給へるか」とて、尼君の見上げたるに、すこし覚えたる所あれば、子なめりと見給ふ。女児「雀の子をいぬきが逃がしつる。ふせごのうちに籠めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。此の居たるおとな「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづかたへか罷りぬる。いとをかしうやうやうなりつるものを。烏などこそ見つくれ」とて立ちて行く。髪ゆるやかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後見なるべし。



尼君は、どうしたのですか。
他の童と、喧嘩でも、しましたかと、言いつつ、尼君の、見上げた顔に、少し似たところがある。源氏は、尼の子供なのだろうと、思われる。
女子は、雀の子を、犬君が、逃がしたと、言う。籠の中に入れていたのにと、残念がるのである。
そこにいた、女房が、あの、心なしの、つまり、アホの、とか、お馬鹿なという意味で、こんなことをして、また、叱られると、困ったものだ。どこへ、行きましたか。とても、可愛くなりましたのに、烏などに見つけられては、大変ですと、言い、立って行く。
髪は、ゆったりとして、長く、器量も悪くない女である。
少納言の乳母と、皆が言うが、この子の、世話役なのだろう。



尼君「いで、あな幼なや。言ふかひなうものし給ふかな。おのがかくけふあすにおぼゆる命をば、何ともおぼしたらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得る事ぞと常に聞ゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついいたり。つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、かんざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと目とまり給ふ。さるは、限りなう心をつくし聞ゆる人に、いとよう似奉れるがまもらるるなりけり、と思ふにも、涙ぞ落つる。



尼君は、ああ、なんて幼いこと。しょうがないこと。
私が、今日、明日と、知れない身の程になっているというのに。
雀を追いかけているとは・・・
罪になりますよと、いつも、言うのに。困りますよ。と、言う。
さあ、ここへと、言うと、傍に膝をついた。
顔立ちは、とても、あどけなく、眉の辺りが、朧で、子供らしく、掻き上げた額ぎわや、髪の具合が、大変可愛らしい。
大きくなる姿を見ていたい人だと、源氏の目が止まる。
それは、実は、深い思いで思慕する、あのお方に、とてもよく、似ているので、目が離せない。
と、気づくと、涙が、こぼれるのである。

まもらるるなりけり
いつの間にか、じっと見つめているのである。

その、似ているお方とは、帝、つまり、父の后である。
それを、思い、女童を見て、涙するとは、恋とは、このように、感傷的にさせるものであると、この頃からの、心境である。

恋によって、今まで、気づかなかったものや、事に、思いを馳せるように、なる。

この、恋の心の、様々な動きから、人間は、多くの心模様を知ったと、解釈するのが、大和心である。
そして、もののあわれ、というものの、原型と、考える。



尼君、髪をかき撫でつつ、「けづる事をもうるさがり給へど、をかしの御ぐしや。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿におくれ給ひしほど、いみじう物は思ひ知り給へりしぞかし。唯今おのれ見棄て奉らば、いかに世におはせむとすらむ」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼なごごちにも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪つやつやとめでたう見ゆ。



尼君は、女の子の髪を、手で撫でながら、言う。
櫛を入れるのを、嫌がるけれど、いい、御髪だこと。他愛無くおいでなのが、気がかりで、たまりませんよ。
これくらいになれば、こんなではない人もいるのです。
亡くなった姫様は、十ばかりで、殿様に、先立たれましたが、その時分でも、ちゃんと、お解りになりましたよ。
今日にも、私が、見捨てたら、どうして、暮らすというのでしょう。と、言いつつ、泣く。
それを見て、源氏も、悲しい気持ちになるのである。
子供心にも、さすがに、悲しい気持ちになり、尼を、じっと、見つめ、伏目になって、うつむくと、顔にかかった、髪が、つやつやとして、見事と、思えるのである。



いとはかなうものし給ふこそ あはれにうしろめたけれ
現代文に、訳すのが、ためらわれる、箇所である。

いと はかなうものし 給ふこそ
あはれに うしろめたけれ
はかないことと、気づかずにいる。それは、大人の世界では、頼りなげに見えるのである。
それが、あはれに、気がかりなのである。

子供が、大人になる、過程で、一つ一つと、何かを棄ててゆく。
成長とは、子供の世界を、捨ててゆく行為なのである。

だが、それは、捨てているようで、しっかりと、心の中に、仕舞っておくということも、出来る。
子供心は、潜在意識に、隠されるのである。

あはれ、とは、子供心への、憧憬の名残とも、いえる。
あの、無心に生きる心への、憧れである。
すべてに、感動した、あの幼い心、こそ、もののあわれ、というものの、原風景であったと、気づくのである。


源氏物語が、すでに、すべての小説、文学を書き込んでしまったという、考え方が出来る。故に、作家は、何度か、源氏物語に、戻るという。
勿論、作家が皆々、源氏物語を、求めるという訳ではないが、ここには、すべてが、書き尽くされたと、感じ取る力が、作家には、必要である。
文学は、永遠であるが、そのテーマは、繰り返されて、時代に合わせて、語られる。
しかし、人間がいる限り、人間のテーマは、変わらない。
変わりようがない。ただ、変容するだけである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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