2008年10月03日

神仏は妄想である 162

中国仏教では、多くの偽仏典が、書かれたことを、以前書いた。
それは、日本でも行われる。

勿論、大乗経典自体、偽の仏典である。
偽というのは、創作という意味である。
インドからの、仏典に、漢訳した者の、余計な言葉が、継ぎ足されている、経典もある。

もし、釈迦仏陀の言葉の、事実を知りたければ、初期の経典から、探ることである。
言い伝えられた言葉を、かろうじて、残すのである。
そこから、探ることである。

これが、唯一の仏陀の真実の教えであるという、経典主義は、単なる、独断である。更に、その解釈などは、欄外である。
解釈の方を、重んじているのが、大乗仏教である。

仏陀は、因果応報、自業自得を説いたのであり、すべのことは、個人に帰すという、考え方である。
大きな舟に乗せて、衆生を、彼岸に運ぶなどという、教えは、魔境というしかない。

ただし、それを理想的に、考えるのが、お目出度い、日本の仏教愛好家である。

土台、誰もが、仏になるなどいう、詭弁を信じるという、愚行である。
皆の心に、仏が住むとか、宿るという考え方は、人を騙す手である。
そのような、生ぬるい、信仰というものを、ことのほか好む、日本仏教愛好家である。

親鸞は、愚かにも、父母のために、念仏することはないと、言う。
それは、自分が救われれば、当然、父母を救うというのである。
これが、一般的、信仰の有様である。

人は、人を救うことなど、出来ないとは、考えない。
私は私であり、他ではないのである。

仏陀は、明確に、言う。
我は、我のみである。他は、他のみである。
要するに、個人のことは、個人に帰結する。

救いという観念自体も、どうかと思うが、自分を救うのは、自分である。

仏陀最後の言葉として、己を頼み、真理の法を明かりにせよと言うのである。

もっと、平たく言うと、自分でしか、自分は、救えませんということだ。

だから、仏陀は、生活指導を行った。
心のあり様を、見つめる行為を、指導した。
後は、それぞれの問題である。

人の命に、関与できないと、同じように、人の救いなるものにも、関与できない。
親兄弟でも、である。

さて、日本の中世という、時代は、実に、驚くべき精神構造であった。
中世は、他の時代と、比べて、あまりにも、多面的なのである。
それは、事実もともかく、精神構造が、多面的だということである。

仏教にみに、絞ってみることにする。
鎌倉仏教と、本覚思想である。
本覚思想とは、あらゆる存在が、そのままで、悟りの姿を示しているという、考え方である。
それは、比叡山を中心とした、旧仏教界から、はじまった。
平安後期からの、思潮である。

そして、中世に、現れた、日本書紀の注釈書の出現は、中世神話の、形成である。
更に、鎌倉、南北朝時代にかかる、伊勢を中心とした、神道思想である。
加えて、圧倒的に影響を与えた、密教である。

中世の精神は、実に、混沌としたものである。
それを、一つ一つ、解すとなると、膨大な、原稿を書かなければならない。

中世全体の大きな課題は、乱世の生死の激しさにさらされて、人間とは何か、罪とは何かと改めて根本的な問い直さなければならないところにあったが・・・この人間と罪についての問題意識の関連である。
分銅淳作 亀井勝一郎 日本人の精神史 あとがきより

これを、読むと、最初から、人間とは何か、罪とはなにかを、問い掛けていたかのように、思われるが、それらは、仏教によるものである。

仏教思想が、日本に根付くための、決断の時代でも、あったといえる。

確かに、それは、いずれ通るべき道である。
ただ、仏教にばかり、言えるものではない。

人間と、社会が、成長するために、通らなければならない道だったのが、中世である。
そして、中世から、近世に変革する時も、大きな決断を要する。

中世は、まず、精神の解釈の必要性に、迫られた時期である。
平安からの、たゆたう、ものから、明確にしなければならないもの。
それを、仏の教えに当てた。
それはそれで、評価する。

ただし、それは、その時代性というものであり、それが、そののまま、現代に通じるかといえば、違う。
現代は、現代の時代性により、思索し、思考しなければならない。
中世の、精神を深めることから、それを、為すという考え方も出来るが、別の方法もあるということ。

これ以外に無いと、判定すると、誤るのである。

未だに、中世を、そのままに、選択仏教のように、何かを、選択するという、考え方を持っては、先に進まない。

現代でも、特殊能力によって、私は、知る者である、とか、私は、悟った者であるなどと、言う者が、真理の法を説くというが、真理というのは、その人の真理である。

真理は、一つといいたい、気持ちは、解る。
一つだから、真理というのだという、偏狭な考えに捕らわれている者も、多数いる。

しかし、この、グローバル化した、現代の状況を見渡せば、真理というものが、一つではないということが、解るものである。

しかし、どうしても、真理は、一つという者は、しょうがない、セクトのようになるしかない。または、新宗教である。

それならば、理解する。
しかし、それが、すべてだという時、互いの会話が成り立たなくなり、停止する。そして、何ら、関係は進展しない。

大学を中退せざるを得なかった人がいる。
いじめ、である。
そのセミナーに参加していた者が、その人を省いて、すべて、ある宗教の折伏に遭い、会員になった。
彼のみ、会員になることを、拒んだ。
すると、いじめ、である。

これは、象徴的な出来事である。
これが、唯一と、信じる者によって、世界は、混乱する。

そして、今現在の世界も、それで、混乱する。

イスラムの地に、キリスト教が入ると、それは、混乱の始まりになる。
共に、唯一と信じるからである。

実に、法華経からは、多くの集いや、団体が生まれた。そして、未だに、生まれ続けている。
それを、信奉する人、それだけが、正しいと思い込む。
一人の信仰で、済ませるならば、問題ないが、法華経を奉ずる者、それを、人に説くのである。
信じきると、騙される。
騙されたまま、人に教えを説くのである。

それらが言うことは、正しい教えのみに、正しい知恵というものが、与えられると、言う。それの正さというものの、判定は、誰がするのか。何を持って、正しいとするのか。それは、単に信じるという、心的状態のみである。

実に、浅はかである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。