2008年10月02日

もののあわれ282

すこし立ち出でつつ見わたし給へば、高き所にて、ここかしこ僧房ども、あらはに見おろさるる。ただこのつづらをりのしもに、同じ小柴なれど、うるはしうしわたして、きよげなる屋、廊などつづけて、木立いとよしあるは、君「なに人の住むにか」と問ひ給へば、御ともなる人、「これなむ、なにがし僧都の、このふたとせ籠り侍るなる」君「心はづかしき人住むなる所にこそあなれ。あやしうもあまりやつしけるかな。聞きもこそすれ」など宣ふ。



すこし外に出て、庵室の前を、歩きながら、その辺りを御覧になる。
高い場所なので、あちこちの寺が、いくつも、隠れることなく、見える。
九十九折の下に、他と同じ小柴垣根であるが、見事に作られている。
小奇麗な、家や廊などを建て続けて、植木も、趣がある。
君は、誰の住む家かと、お付の者に問う。
お供は、これは、あの、何々僧都が、ここ二年、お籠もりしている、寺です。
君は、気詰まりな、人の住んでいる所だ。我ながら、粗末な恰好で、来たものである。私が来たと、知れたら、困るな、と仰る。


心はづかしき人
気の置ける人。
こちらが、恥ずかしくなるような、人である。

あやしうも あまり やつしけるかな
自分の姿が、余りにも、粗末である。

僧都とは、僧正に次ぐ、位の僧である。



きよげなるわらはなど、あまた出で来て、あか奉り花をりなどするも、あらはに見ゆ。共人「かしこに女こそありけれ。僧都はよもさやうにはすえ給はじを、いかなる人ならむ」とくちぐちに言ふ。おりてのぞくもあり。共人「をかしげなる女こども、わかき人、わらはべなむ見ゆる」と言ふ。


美しい童女たちが、出て来て、仏様に、水を差し上げたり、花を折る様子が、よく見える。
「あそこに、女がいる。僧都は、まさか、女を置いているのではないだろうな」と、口々に言う。
降りて、覗く者もいる。
「美しい娘や、若い女房などが、います」と、言う。



あか奉り
仏に供える水。梵語である。
閼伽と、書く。



君はおこなひし給ひつつ、日たくるまままに、いかならむとおぼしたるを、供人「とかう紛らはせ給ひて、おぼしいれぬなむよく侍る」と聞ゆれば、しりへの山に立ち出でて、京のかたを見給ふ。



君は、勤行を行っていたが、熱が出ないかと、気にしていた。
供人が、なにゆえ、お気を紛らわせて、気になさらないことです、と申し上げるので、
庵室の後の山に、登り、京の方を、御覧になる。



はるかに霞みわたりて、よもの梢そこはかとなうけぶりわたれるほど、君「絵にいとよくも似るかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」と宣へば、供人「これはいとあさく侍り。人の国などに侍る海山のありさまなどを御覧ぜさせて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしのたけ」など語り聞ゆるもあり。また西国のおもしろき浦々、磯のうへを言ひ続くるもありて、よろづに紛らはし聞ゆ。



遥かに、霞がかかり、その一帯の、木々の枝の先も、はっきりと、見えないほどである。
けぶり、わたれる
霞に、曇る様である。
君は、絵に描いたようだ。こんな所に、住む人は、この美しさを、堪能しているんだ。
仰ると、供人が、これは、まだ山も浅く、つまり、それ程、高くなく、景色も、平凡ですと、言う。
遠い国などの、海や山の、景色を見ましたら、どんなに、絵が素晴らしく、立派でございましょう。富士の山は、何々の岳は、などと、お話する者もいる。
また、西国の、趣ある、あちらこちらの、海岸の景色を言う者もいて、気を紛らわせるのである。

ここで、面白い表現は、絵になるというのは、風景の美しい様を、絵として、見るということである。
絵に描いたようだと、訳したが、実は、そのものを、絵として、認識しているのである。

絵に描いたような、素晴らしさというのは、実は、変な表現である。
絵は、それを、写しているのであり、そのものではない。
そのものが、絵よりも、勝れているのだが、表現として、絵のように、美しいと、言う。

この、言い方を、よくよく、考えてみると、日本人の表現のさまというものが、理解できるのである。

間接的に、あるものを、褒め称えるという、表現を、日本人は、好むようである。
そのもの、ずばり、は、避けるのである。
何故か。
それを、失礼に当たると、思う。
何故か。

奥床しいのである。
奥床しさとは、存在するものを、一端、突き放して、見る。
それは、所作にも、通じるものであり、特に、奥床しいという場合は、女性の所作に、言われるようになる。

実は、この奥床しさは、芸道に、生きてゆく。
控え目、抑制の効いた、美学である。

抑制の効いた美学は、後に、世阿弥の花伝書について、書くときに、テーマにしたいと、思う。
もののあわれ、というものの、また一つの、心象風景は、奥床しさでもある。

だから、ここの、風景の美しさを、言うのに、素晴らしい、絵、ですという、訳が、正しい。
それ自体を、絵と、見るのである。

描いたものが、絵ではない。
そのものが、絵なのである。

基本的に、西洋の美学では、語り得ないものであることを、知るべきである。

日本の、絵、とは、心の風景を描くものであり、写実ではない、ということを、言う。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第7弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。