2008年10月02日

神仏は妄想である 161

さて、日蓮のもう一つの顔について、言う。

預言である。
日蓮宗系などの、後の世の人、日蓮には、特別な力が、備わっていたかのように、考える。それを、検証する。

立正安国論の提出から、八年ほど経た文永五年、1268年、正月、蒙古のフビライから国書が、届く。
そして、三年後に、蒙古連合軍が、壱岐、対馬、博多に襲来した。
日蓮は、この事を、自分の忠告を聞かず、逆に、却下した、幕府に対する、懲罰であると、考える。

他国侵逼難、つまり、外国の侵略である。

蒙古の襲来を、預言の的中とみた、日蓮である。
没後は、それが、更に、神格化されて、崇拝の対象となるのである。

未来を見通すことが出来る、預言者という、日蓮像である。
その結果は、憂国の預言者としてのイメージが定着したことは、実に、悲劇である。

確かに、日蓮が、預言した事実はある。
しかし、それは、日蓮自身が言う。
予知能力によって、預言したものではないと。
それは、経典に書かれていることである。
つまり、正法の衰退により、諸難の事々かあると、いうことである。それは、いうならば経典の言葉である。

立正安国論において、金光明経などの、四つの経典を引いた後で、心の迷えるものたちは、みだりに邪説を信じて、正しい教えを受け入れないという、ことである。
それは、念仏をはじめ、他の宗派のことである。

経典の中に、国土の荒廃を見て、教えの正しきもの以外が、流布した場合は、難があるという、言葉である。

当時は、頻繁に災害が起こり、多くの人々が、苦しみに喘いでいた。
それは、誤った教えの故であると、言うのだ。

安国を、願うのならば、正法に従い、それを、流布しなければならないという、独断である。独善でもある。

では、現在の、多くの災害も、そのように、解釈される。
時代は、いつも、動乱であり、災害は、いつもある。
これから、どこかに、地震がありますと言えば、当たる。必ず、世界のどこかで、地震があり、日本は、地震列島である。

あまりにも、稚拙である。

ここで、キリスト教を、持ち出す。
カトリックに対抗して、出来たプロテスタントは、個人と神との関係を、主体にした、信仰形態を、作り上げた。
聖書主義というのも、その一つである。
つまり、教会という、団体を通すのではなく、個人が、直接、神と、向き合うことが出来るという、教義である。

これが、中世、鎌倉の仏教にも、起こったということである。
更に、その蒙昧は、仏を、超越者にしたことである。

人は、直接、本仏に、向き合うことが出来るという、仏を超越的なものとした、妄想である。

それは、あたかも、歴史家などが言う、画期的なことではあるが、内容は、上記のように、とてつもない、妄想である。

つまり、歴史の一過性の、それを通らなければ、理解し得ないという、道である。
それを、通り抜けて、神仏は、妄想であるということに、気づくための、一つの方法だった。

釈迦の真意にかなうものとして、念仏が唯一、題目こそ、救いである、禅が唯一の正しい仏への、道である。
極めて、独善的、排他的な、妄想である。

仏教の真実を見出そうとする命を賭した挑戦によって、彼らは学者の立場を超えて、幾多の歳月を超えて人々の魂を揺さぶり続ける真の宗教者、真の思想家となることができたのである。
佐藤弘夫 偽書の精神史

上記は、ある意味で、正しいが、ある意味では、評価のし過ぎである。
思想家というならば、少しは、納得するが、以後の彼らの、宗門は、ただ、ただ、堕落の一途を辿った。
見て御覧の通りである。

既得権益に乗り、堂々と、偽の仏教を掲げて、宗教として、成り立っている。
信じる者は、騙されるから、未だに、騙されたままに、霊界に行く。
その、霊界は、宗教霊界であり、極楽でも、天国でもない。
おそらく、寺の上空、一メートル程度の、霊界にいるのであろう。

勿論、仏陀は、いない。
霊界でも、念仏三昧、題目三昧で、坐禅をして、これが、仏の道と、やっているのである。
やり切れない。

ちなみに、霊能力者の、一つの妄想を、紹介する。
法然と、日蓮は、一緒に修行しているという。
また、日蓮は、インド魔界の、ある神が、背後で指導していたという。背後霊が、インド魔界の神と言われるモノである。

皆々、妄想なので、私も、妄想をかましてみた。

そして、仏陀の本仏という、超越した考え方は、まさしく、彼らの妄想以外の何物でもない。
思想的には、画期的、前代未聞の行為であろうが、何のことは無い。
時代性によって、生まれたものである。
そして、彼らは、日本人であったということ。
見事に、日本人向けの仏教創作に成功したのである。

中国仏教から、ようやく、我が国の仏教を創作したのである。
創り出したのである。
存在しているモノではない。

編み出したのである。
芸術として、捉えれば、実に、見事な、出来栄えである。
果たして、思想としてみる場合は、どうなのか。
耐えうるものか。

そこで、中世における、偽書の問題を見ることにする。
本当は、中世史を、やりたいが、テーマが違うので、神仏は妄想に、絞ることにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第4弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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