2008年09月07日

神仏は妄想である 158

空海は、インド・バラモンの呪術を持って霊的存在に対処する。
日蓮は、それを、真似て、陀羅尼で、対処する。

日蓮は、法華経の行者と自ら名乗り、霊的存在と対処し、その弟子たちも、行者として、霊的存在に対処した。
それは、現在も、行われている。

彼らの、言葉にすると、不成仏霊ということになる。
それは、日蓮宗系の、霊能者などにも、引き継がれて、法華経を持って、霊的存在に対処するという形である。

空海の、真言密教の方法と、日蓮宗系の、所作には、違いがあるが、それは、専門的というか、個々人で、違うゆえに、一概に、書くことは、出来ない。

ここで、面白いのは、成仏、不成仏という言葉である。
一体、何を基準として、不成仏というのか。
それは、単に、幽霊という形で、現れる霊に対する所作でもある。

マスコミなどが、放送するものは、それである。
見える形で、霊的存在を、示すものだから、放送という形を取れるが、見えなければ、出来ない。

人に霊が、憑いて、何やら喋らせたりする。
それを、取り除くという方法である。
霊の存在を、信じない人には、催眠術のように、見える。

それ以前に、不成仏霊について、少し言う。

あちらの世界に行けない霊である。
つまり、この世に、留まり、浮遊する。
何故か。
思いである。強い思いが、そうさせる。
しかし、子供の霊などもいる。
強い思いがなくても、いる。何故か。
よく解らないのである。

死んだということを、意識しない場合が、多い。
何故か。
死後の世界を、受け入れないからである。

事故多発地帯に、多く幽霊が、出ると言われる。
それは、そこで亡くなった人が、そこに、留まるからである。
その霊を、不成仏霊と言う。

私の言葉にすれば、次元移動出来ない、霊であり、不成仏ではない。
人間は、成仏するものではない。というより、成仏というものは、観念である。

仏になる。
死んだら、仏になると、観念するという、誤りである。

それでは、日本の伝統では、命 みこと、になると言う。
自然に隠れた存在になると、考えて、お隠れになると言う。
つまり、次元を別にするということである。

総称して、神になるとも、言う。
しかし、一神教の神観念ではない。
超越した、存在ではない。
この世に、また、あの世に、超越した存在は無い。
それは、信仰である。
信じる行為で、それを、生み出す。

我は、神であると、出て来るモノは、霊である。
単なる、霊である。
新興宗教の教祖たちは、皆、この、霊に、やられた。

迷い、浮遊する、そして、成仏せずに、苦しむ霊を、読経により、引き出し、それらを、納得させて、成仏させるという、行がある。

確かに、それは、事実としてある。
霊が、障り、不調和を起こすというものである。
それなりに、処置をすると、それが収まり、正常に戻る。
しかし、これが、実に、難あり。
確認する術が無いのである。

霊的能力者と言われる者たちは、多くは、精神疾患的である。
また、人格としても、未熟である。
自己顕示欲によって、成る人もいる。

多く、霊的能力があると、言う人は、何のとりえが無いゆえに、その自己顕示を満たすべく、霊的能力があると、演じる。

それの、恰好の、お経が、法華経である。
悪魔のお経であるから、言霊が強い。
特に、漢訳されたことにより、更に、それが増した。
いずれ、法華経について、書くことになるが、内容は、ハリーポッター並の、ファンタジーである。

釈迦仏陀が、最後に説いた教えというが、それは、後世の人の、言うことであり、根拠が無い。
しかし、多くの人が騙される。
騙されるような、お経である。
つまり、如何様にも、解釈が出来るのである。

白隠という、禅師も、最初は、法華経を、単純なお経と見ていたが、次第に、法華経の、凄さが、解ったという。それは、単に、法華経に、取り込まれただけである。

漢訳された時、妙法蓮華経と、訳された時、魔が入った。
みょう ほうれんげ きょう
妙法は、つまり、真理の法は、蓮華の、つまり、蓮の花の如くにあり、である。

大乗仏典というものは、後々、編纂されたものであり、誰が書いたのかも、特定出来ない。
創作の話から、あれほどの、教義を作り出すものであるから、相当に、おかしい、変なものである。

文学として、扱った時のみ、正しい。

南無阿弥陀仏も、おかしいが、創作の、お経に、帰依するという、南無妙法蓮華経は、更に、おかしい。
それが、本地の仏から、出たものと、信じた日蓮は、おかしい。
その、おかしさに、気付いて、いなければ、法華経を唱える者は、地獄に落ちるということになる。

仏教は、経典を掲げて、宗派を起こす。
新興宗教では、阿含経を掲げるものもある。涅槃経を掲げるものもある。
甚だしいのは、般若心経のみで、詐欺のような、宗教を立てる者もある。

霊を祓うと、一心に、般若心経を唱える集団もある。

三蔵法師玄奘の漢訳が、日本の大乗仏典の多くである。
玄奘は、法相宗を起こした。
その、法相宗の、教義というか、考え方を知らないで、唱えるという、愚行である。

玄奘は、大乗を学ぶために、命懸けで、天竺に旅した。
最高学府ナーランダにて、学び、唐に戻り、翻訳をはじめた。
そこでは、大乗のみならず、小乗も、学びつくした。
とんでもない程の、優秀な頭脳により、最高学府の、最高に達したのだ。

玄奘の、教えには、仏に成れない者がいるというものがある。
人を五種に、分けて、最後の、一種に、仏に成れないものがいると、打ち立てた。

これが、天台との、違いである。
最澄は、お育ちが良いのか、人は皆、仏に成ると、掲げた。
天台宗は、名門である。
鎌倉仏教の、祖師たちは、皆、これに習った。
大きな間違いの元である。

天台という、新興宗教が、仏教を堕落させ、破壊し、とんでも仏教にした。
以後、日本仏教は、誤り続けて、今日に至る。
その、天台とは、中国僧、天台チギによる。
三千大千世界というものを、立てた。一念は、三千世界に通じるというものである。

ちゃかす訳ではないが、五千でも、六千で、なんぼでもいい。要するに、心の広さを言うのである。しかし、天台は、仏の世界を言う。

そして、もし、この三千世界を主にして、経典を解釈するというなら、それなりの、直感的解釈がある。
何事もそうであるが、人類は、先のものを批判することによって、生成発展してきた。
その、批判の精神とは、精神進化の、成果である。
批判の精神を、失うことは、精神的死を意味する。
いずれ、それについても、書くことにする。

さて、
人を、皆、救うというから、大乗仏教はいいという、お馬鹿な、仏教家や、識者がいるが、あれは、生業である。
それで、食っているのである。
ホント、いい気なものである。

私は、このエッセイを書いて、食っていけないのである。
それでも、書くというのは、わかるかなーーー
芸術活動である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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