2008年09月06日

神仏は妄想である 157

日蓮の、絶対主観主義は、まず、念仏宗に、向けられる。
この、現実を見ずに、極楽往生という、妄想の世界を求めている念仏宗は、何事かということである。
法然に対する、罵詈雑言は、甚だしい。

さらに、苦悩に喘ぐ人々を助けることのない、本覚思想も、何物でもない。

そして、何を思ったのか、法華経を流布することによって、この現実世界を、変革するというのである。
それの、端的な方法が、題目である。

おかしいでしょう。
念仏などしていて、この現実世界を救えるか、と言いつつ、それと、同じように、題目を唱えて、この世に、浄土を、建設するというのである。

念仏は、死後の世界で、日蓮は、この世に、浄土である。
違うように、見えるが、彼の行動を見れば、実は、同じことなのであるが・・・

だって、日蓮は、何も、していないのです、よ。現実世界に。

その前に、法華信仰でも、その行を唱題するという行為は、平安期から、持経者と呼ばれる、民間の布教者たちによって、行われていたのである。
それは、下賎な人とも言われる人々に、広められていた。
簡単な、方便の行と言われて、正統的な、仏教からは、度外視されていたのである。

それを、日蓮は、取り入れた。

面白いのは、日蓮の、法華経の読み方である。

法華経は、釈迦が、仏滅後に、衆生を救うために、この経典を、地湧 じゆ、の、菩薩に、授けたとある。
しかし、末法の、それも、何も知らない衆生が、出来ることは、知れている。
仏が、万人の成仏を願い、この経典を授けたと、信じれば、どのうよにすれば、いいのだろうかと、考える。最も、易い方法である。

題目、それだと、直感的に、悟ったと、言うが、思い付きであろう。
念仏も、あるし、ね。

日蓮が、佐渡に流された時、更に、その考えを深めて、とんでもない、妄想を起こす。

つまり、仏が、授けた法とは、実は、法華経ではなく、その題目だったというのである。

それでは、ここで、法華経について、書きたいところだが、それをすると、膨大な量になるので、後にする。

日蓮の、思い込みは、自分が、法華経の地湧の菩薩だと、信じたことである。
勿論、それまでも、我が、我がという意識、自己意識肥大は、十分にあったが、受難を受けて、さらに、精神的に、変調をきたしたのである。

例えば、あの、鎌倉時代である。
時の執権北條氏に、念仏攻撃を超えて、それを、許している、幕府の過ちを正すと、立正安国論を提出するというのであるから、仰天である。
心ある、学者は、宗教レベルを超えて、念仏のような邪悪な宗教を、野放しにする、鎌倉幕府に、訴えるという、行為である、と書くが、そんなものではない。あまりに、道を外している。要するに、狂気である。

とても、通常の神経ではない。
その時代の、身分感覚から見ても、信じられない行為なのである。

その、提出した後で、すぐに、念仏宗が、日蓮を、襲う。
それは、幕府の誰かが、目を通して、とんでもないことを、書いていると、念仏宗に、教えたのであろう。

ここで、何故、日蓮が、幕府に対して、そのようなことが、出来たのかという、問題に、ズレた、感覚の者が、日蓮の出生の秘密があるという。
それは、やんごとなきお方の、落胤ではないかというものである。

漁師の息子などではない。実は、日蓮は、公家の血を引くもの、など等の説である。
故に、幕府は、無視出来なかった、云々である。

事後預言ならば、何とでも言える。

仏法の、良し悪しを、正しく判断し、正法をもって、国を安泰にすることこそ、幕府の役割である。との、忠告は、気違い沙汰である。

それは、地獄に落ちる行為であると、高々と宣言するという様。
時代が、違えば、病院行きである。

中世はみだりに他宗を誹謗することはタブーの時代だった。まして権力批判など問題外である。一時期アウトローとみなされていた法然流の専修念仏も、この時期には体制仏教の一翼を担っていた。その根絶を主張し、幕府の怠慢を言葉鋭く糾弾し、北條時頼や後鳥羽院が地獄へ堕ちたと公言する日蓮は、客観的にみれば明らかに許容される一線をふみ超えていた。日蓮がみずから望んで嵐の中に突入していくのである。
佐藤弘夫 偽書の精神史

それを、法難というから、呆れるのである。
日蓮は、仏陀の教えを知らない。
自業自得、因果応報。
中道の心。
戦うのではない。戦う場所から、逃れるのである。それが、仏陀である。

仏教の中で、日蓮宗系は、兎に角、戦うとい言葉が好きである。
仏陀の、教えを知らない。
しかし、正法である、仏法であると、言う。
こういうのを、手がつけられないと、言う。

日本政府は、どこかの、無人島を、日蓮宗系の人々に、開放し、そこで、好きなだけ、題目を上げて、意気揚々と生活できるように、すると、いい。
そこでこそ、仏法の国であると、認めて、日蓮島として、特別地区に指定すると、いい。

日蓮を見ていると、信じるという行為の、最極端を見るようである。

伊豆に流罪の前後から、法華経の行者であると、名乗るようになり、更に、激しく、すべてを、批判した。いや、非難である。

法華経は、最高の法である。
その、正法を、信奉する、我が、何故、このような、受難を受けなければならないのか。
すると、法華経には、なんと、自分のことが、書かれているではないか。

つまり、仏滅後に、この経典を、実践する者、三類の強敵が、現れて、様々な試練が、降りかかるというものである。

私は、何度も、信仰とは、極めて個人的な情緒であるゆえ、それに対して、否定することは、無いと、言った。
しかし、盲信、狂信、という、逸脱した、勿論、信仰は、一度、逸脱して、冷静な意識に戻るものであるが、それを、続行させる意識とは、病である。

法華経とは、ファンタジーである。
当時、書かれた時代の、ファンタジーである。

真理とか、真実などというものは、星の数ほどある。
唯一とか、正法とかは、信じる人のみに、通じることである。

正気に戻れ、と、言う。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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