2008年09月05日

神仏は妄想である 155

日蓮の矛盾と、回心は、西嘉年間に、起こった、大飢饉と、地震である。

日蓮が布教を、はじめたのは、鎌倉である。
大飢饉が起こった時、地獄絵が、現れる。

鎌倉の、町全体が、死体で、埋まる。

中世の、死者は、海岸に捨て置かれた。
酷い時は、道端に捨てられた。幕府が、見かねて、道端に死体を捨てるなと、禁止したほどである。
火葬されるのは、一部の特権階級である。

さて、大飢饉と、地震の様を見て、その被害の甚大さに、日蓮は、驚く。

天変地異や飢饉、疫病があまねく天下に満ち、広く地上を覆っている。馬牛は路上に倒れ伏し、死者の屍と骨は道にあふれている。・・・
食を求めてさすらう人々は目に溢れ、死人は視野に満ちている。しかばねを積み上げれば望楼となるほど高く、横に並べれば橋となるありさまである。
立正安国論

ここには、仏の教えなど、何ほどのものでないことを、悟る、ものがあったと、思える。
それこそ、悟りである。
仏の教えなど、役に立たないのである。
しかし、それならば、仏の教えを捨てるか。
捨てられないのである。

何故か。
人は、生きられるようにしか、生きられないからである。
もし、日蓮が、仏の道を止めて、庶民のために、尽くす生き方を選んでも良かったが、いかんせん、彼は、無力である。
飢餓に苦しむ人を、助けられない。
自分が、食べるのも、やっとである。

ここが、考えどころである。
宗教家というものは、宗教家にしか、なれないのである。

後に、日蓮を、迫害する、良観という、極楽寺の僧侶がいるが、彼は、鎌倉の福祉事業を、一手に、引き受けた。
しかし、日蓮は、それを、罵倒するのである。
その理由が、奮っている。

偽善であるというのだ。
偽善でも何でも、である。助けの必要な人を助けるということ、急務である。

川を見れば、橋を架け、病人を見れば、治すのである。
良観が、手がけた病人で、助かった者は、四万六千人、治らなかった者、一万四百五十人などと書かれる。
これは、社会的に、大変な福祉事業である。

日蓮は、それでは、何をしたのか。
何もしない。
ただ、内にあるものに、目を向けて云々という。

あの、イエスキリストでさえ、人はパンのみに生きるのではなく、神の言葉によると、言う。つまり、パンも必要なのである。そして、神の言葉も、必要なのだ、と。

日蓮が、律国賊と、罵倒したのは、この、律宗の良観のことであろう。
しかし、律宗は、人間の行いを正すのは、世の中を正すという、教えがあり、良観としては、宗派の教え通りを、行ったのである。

ところが、日蓮の言い分は、国賊であるというから、救いようがない。
更に、彼によって、日蓮の、法難が起こったという。
勿論、良観から、すれば、平穏な鎌倉に、とんでもない嵐を、起こす日蓮の存在は、とんでもない者との、意識があっただろう。

日蓮は、何もせずに、批判をする。
以後、日蓮が、行ったことは、何一つ、社会の役に立たないのである。

人の行為を、偽善であるというほどの、何物も、日蓮は、持たない。つまり、説得力に欠ける。これは、日蓮の、ある種の病である。
つまり、人格障害である。

生まれ持っての、傲慢不遜である。
意思の強さと、人が言うが、それは、違う。
傲慢不遜が、意思の強さに、見えただけである。

何せ、日蓮宗である。
唯一、自分の名を冠して、宗派が、起こるという、自己顕示欲は、ただ事ではない。

ある、仏教家が、日蓮を、擁護して、きっと、仏教は、内外不二と言うので、良観のやり方が、外向過ぎると、言いたかったという。
自分の内で、修行を深めることと、外へ出て、人を救うことと、どちらかに、ウエートが、かかるのは、良くないと。

こんな程度が、常識的な、仏教家として、著書を著しているのである。

日蓮は、自分の無力に、嫌気が差して、良観の、行為を嫉妬したと、みてよい。
日蓮の、一生を、見れば、何一つとして、社会活動は、していない。
ただ、正法をのみ、云々という、妄想に生きたのである。

念仏無間とは、念仏宗は、無間地獄に落ちる。
禅天魔は、禅宗は、天魔である。天の魔物がすることであるという。

私に言わせれば、題目盲目である。

立正安国論を、見れば、一言で、誤っている神仏を、拝んでいるから、国に、難が起こるという、子供のような、議論である。

それから、日蓮教学なるものが、出来あがるが、偽書まみれである。
本当と、嘘の区別が、つかなくなり、議論の議論に陥り、果ては、疲れて、日蓮宗の僧侶たちは、在家よりも悪い生活態度である。
何一つ、社会の役に立たないという、役立たずであるから、終わっている。

ちなみに、日蓮宗を、大きく分けると、身延山の、日蓮宗と、富士の日蓮正宗がある。
別段、区分けするほどのものではいない。
同じ穴の狢である。

さて、題目、一筋に至った、日蓮の、絶対主観を、ゆっくりと、見つめてゆくことにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。