2008年09月04日

神仏は妄想である 153

日蓮にゆく。

日蓮は、仏陀を知らない。
それは、実在の仏陀を知らないというのではない。
仏陀の教えを知らない。
彼が、知った、仏教は、天台である。
ここに、彼の悲劇がある。

下々の、身分である、単なる僧の一人が、国の政治に、物申すという、暴挙をなした。
何故か。
国を案じたか。
違う。
自己顕示欲と、名利の何物でもない。

千葉の貧しい漁民の子に生まれて、天下を目指すとしたなら、身分の意識曖昧な、仏教という、場から、はじめなければ、彼の野心を、満たすことはない。
高僧になれば、身分を超えて、ゆける。

法華経を称えること、天台を真似て、祈祷をなすこと、真言に真似て、題目を唱えること、念仏に真似て、末法思想は、厭離穢土の浄土門を、真似た。
さらに、安国を述べること、仏教の護国を、真似た。
そこに、オリジナルは、無い。

更に、鎌倉では、神道をも、学んだ。
故に、神棚の前でも、法華経を唱えるという、行為が、日蓮から、はじまった。

後の人、法然は、理で悟り、親鸞は、情で悟り、日蓮は、意で、悟るというが、そんなことはない。
皆、それは、迷いである。

彼が、他宗のすべてを、罵り、攻撃したのは、それらに、最も関心を抱いたからである。
彼の、不屈の精神は、偉くなり、人に尊敬されること、それに、尽きる。

彼の、行動は、すべて、裏目に出た。

仏僧は、多く、偏屈であり、天邪鬼が多い。
私自身がそうであるから、それを、理解する。

人の意表を突き、飄々として、いられる。
あえて、物議を醸し出す。
日蓮は、それの、典型である。
彼の、教義の屁理屈は、何のことは無い。

日蓮の目的は、解った。
それでは、日蓮を見る。

「立正安国論」にみられる日蓮の抱いた疑惑そのものは必ずしも新しいとは言えない。源平合戦から承久の変まで、なぜ多くの天皇が悲運のうちに倒れて行ったか。安徳帝や、承久の変で配流となった三上皇を悼んでいるが、そこに古代風の「鎮護国家」にむすびついた一種の「神国思想」がみられる。また内乱を通しての犠牲者と、そこに生ずる無常観は当時の誰しも抱いたところである。或いはなぜ天災地異がくりかえされるのか。鎌倉の大地震や、疫病飢餓の発生を深く憂えているが、これも当然のことだ。内乱と天災と疫病と、歴史は恐怖の歴史だという実感に立っていることは、いずれの出家者にも共通している。
亀井勝一郎 日本人の精神史


何も、新しいものではない。
そして、注目すべきは、彼は、日本という国に、その精神的支柱として、君臨すべくの、活動であるということ。
それは、野心である。


では日蓮の独自性はどうにあるか。いまのような疑惑に直面して、法華経を根本とするととともに、それ以外の一切の経典と宗派に対して、強烈な折伏力を発揮し、その結果として生ずる受難において、信仰の証をたてようとした点である。

と、亀井は言う。さらに

法華経専修による宗教改革力を爆発させたようなものである。法華経そのものは聖徳太子の時代以来、ひろく読まれてきた。様々な性格の菩薩が登場し、劇的に構成された多彩な大乗経典であり、芸術の上にも多くの影響を与えてきた。しかし、日蓮のように読んだものはひとりもいなかった。

そうである。
日蓮のように、あの、御伽噺を、あのように、読んで、解釈したものはいない。
それに、注目すべきであろう。

日蓮の、末法思想は、膨大な仏典の、どこにも、出てこない。というより、そんな、考え方は無い。
それは、中国の一人の、誇大妄想の僧の、アイディアから、生まれた、思想というより、戯言である。

末法という、考え方に、強迫された。
要するに、末法思想の、強迫神経症である。

更に、日蓮は、その、末法というものに、撹乱され、今こそ、我が、我が、我がと、自我意識を、拡大させた。
とてつもない、妄想の中に、身を埋没させたのである。

それに、拍車をかけたのが、名利である。


日蓮の考えた末法の世とは、折伏の時機であった。接受ではもはやまにあわぬとみたところに、彼の危機感があったということである。法華経を護るため、様々な経文から、折伏の必要と必然性をあきらかにしようとしている点に、きわだって特徴がみられる。
亀井勝一郎

法華経については、後で、じっくりと、検証する

日蓮の、迷いは、正法というものと、釈迦の説いた教えの、根本であるという、ものである。
要するに、信じた。
何をか。
自分の妄想を、信じ込んだのである。

これこそ、正法、釈迦が、説いたもの。
信じるしかない。
釈迦に会っていないのだから。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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