2008年09月02日

神仏は妄想である 151

ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。
道元

これは、実に美しい大和言葉である。

ただ、我が身も、心を離れ、忘れて、仏の家に、投げ入れて、仏の方から、来てくれる。これに、従うのである。力も入れず、心の働きもない。そうすれば、生死というものを、離れ、つまり、その観念を離れて、仏となる。
ということである。

いかがだろうか。
これには、騙される。
勘違いする。
読んだだけで、何か救われたような気持ちになる。

言葉の、恐ろしさを知らない人が、これに、やられる。

その気になるのである。

仏の方から、来てくれる。
どこかで、聞いたような、話である。
そうそう、念仏、浄土門の時に、話した、書いた。
阿弥陀仏が、救うというものである。
ただ、念仏することによって、弥陀の本願に、救われるという、ものである。

魔界の教えである。

すると、もっと、凄いのは、念仏しなくても、救われるという、考えである。
ちなわち、弥陀の本願は、一人が救われなければ、我が身の救いは、無いというのであるから、念仏しない者でも、救うということである。

このように、突き詰めてゆくと、とんでも、ハップンという、恐ろしい、境地に至る。
マジである。
マジで、そのように、考える。

三蔵法師玄奘の時までは、よかった。
辛うじて、救われない者もいる。
仏に成れない者も、いると、教えた。

要するに、馬鹿は、死んでも馬鹿ですという、教えである。
それが、どこで、どう間違ったのか、あるいは、変節したのか、アホになったのか、狂ったのか、皆救われる。皆、仏になるという、耳障りの良い言葉を、並べ立て始めたのである。

天台である。
中国の僧、天台チギという者。
つまり、解釈である。
解釈は、事実ではない。


栗田勇氏の、引用も、面倒になったが、面白い話が載っている。
カトリックの、徳の高い、修行僧や、神父は、医者にかからないというものである。
何故なら、病は、神が与えたもうたものである。
故に、それは、人為をもって、手を入れてはならないと、考えるというのである。

エホバの証人、ものみの搭という、カルト系キリスト教は、輸血を禁止する。
我が子が、手術をするのに、輸血を拒否するという、アホ、馬鹿、間抜けの、親がいる。
今は、法律で、未成年者の場合は、輸血が、出来るようになった。

さて、解釈を、持っての、教えとは、全く、筋違いになるのである。

おわかりか、皆様、宗教とは、如何様にも、解釈出来るということ。
気が狂えば、狂うほど、とんでも、解釈になるのである。
そして、それを、人に押し付ける。
信じさせる。

これは、暴力である。

神父は、神の意志ゆえに、病と、闘わないのである。
よろしい。
その本人がそれで、いい気分ならば、言うことはない。
何ゆえの、医学であろうか。
それを、考える。

あたかも、信仰深い、立派な態度に見えるようだが、単なる勘違いである。

助かるものなら、助かった方がいい。
二度とない、人生である。

前世というものがあろうが、この時、この私という、存在は、唯一の存在である。
二度と、この私という意識は、現れない。

道元は、生死を、離れたところに、仏というものを、置いている。いや、生死が、仏の命であるという。

一体、何を言いたいのか。
仏の境地とは、そういうものなのか。
あるいは、仏という存在が、生死を、超えたものなのか。

それでは、仏として、尊敬された、仏陀は、どうか。
死んだ。

今は、仏陀は、死んでいないのである。この世に、存在しない。
仏が、生死を、超えたものということは、証明出来ない。

思い余った末の言葉である。

信仰に、つきものな、我を、何かに、任せるという、境地を言うのだろう。
仏という、訳のわからないものに、我を任せて、どうする。

生死を離れ、仏となる。
それでは、道元は、仏になったのか。
何故、我、仏になれり、と、書かないのか。

ここに、道元の、不案内がある。
つまり、迷いである。

どうせ行くなら、我、仏となれり、でいい。


ただ、その道元も、矢張り、大和心に、戻っている。
次の、文である。

仏となるに、いとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するところなく、一切衆生のために、あわれみふかくして、上をうやまい下をあわれみ、よろずをいとうこころなく、ねがう心なくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。又ほかにたずぬることなかれ。

これを、仏というと、明確にした。

それは、悪を行わない。
生死に、執着しない。
みんなのために、哀れみ深く。
上を敬い、下を憐れみ。
すべてのことを、厭わない。
願う心もなく、心に思うこともない。
憂いに沈まずにいる。
それを、仏だというのである。

願うことなく、心に思うこととは、妄想である。
それでは、仏という妄想を捨てるべきである。

何も、仏になる必要はない。
大和心を、生きればいいのだ。

おほいなる やわらぎの こころ である。
大和心を、仏であると、最後に、締めくくる。

それでは、次に、道元の、大和心に至る道を見て、道元を終わることにする。

結局、仏教の究極が、大和心であるということ、実に、明確である。
道元、辞世の句である。
また見んと おもいし時の 秋だにも 今夜の月に ねられやはする



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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