2008年08月16日

もののあわれ278

かの伊予の家の小君参る折りあれど、ことにありしやうなる言伝てもし給はねば、うしとおぼしはてにけるを、いとほしと思ふに、かくわづらひ給ふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く下りなむとするを、さすがに心細ければ、おぼし忘れぬるかと、こころみに、空蝉「うけたまはり悩むを、言にいでてはえこそ、

とはぬをも などかととはで 程ふるに いかばかりかは 思ひ乱るる

ますだは、まことになむ」と、聞えたり。珍しきに、これもあはれ忘れ給はず。



伊予の介の家の、小君が、居候するときもあるが、格別に、以前のように、言伝もなさらない。
嫌な女と、思ってしまわれたのか、お気の毒なことだと、思っていたところ、ご病気であるとのこと。女は、矢張り、思い嘆くのだった。
遠い国に、下るとするが、心細くなり、お忘れになったのかと、試しに、空蝉は、ご病気と、伺っており、案じていますが、口に出しては、とても、言えないのです。

お尋ねすること、何故と、問うこともなく、月日を経ました。
どんなに、寂しく、また、辛い思いで、いられるでしょう。

ますだ、と申しますのは、本当のことで、ございます、
と、お便りを差し上げました。
珍しくあり、この人にも、愛情はなくなっていないのである。

ますだ、とは、ますだの池の、生ける甲斐なし、という意味。
拾遺集、
ねぬなはの 苦しかるらむ 人よりも 我ぞ益田の いけるかひなき
ねぬはな、とは、じゅんさいのこと。
苦しいと、口にする人より、私の方が、苦しさが、増す。生きている甲斐もない。
この歌が、基底にある。


要するに、小君が、源氏のところに来ても、以前のように、何も、言伝がないのである。そこで、女は、もう、嫌な女だと、思ってしまわれたのか、と、思うのである。

そこで、病にあると、聞き、文を差し上げた。


これもあはれ忘れ給はず
この、あはれ、とは、源氏が、この女を、忘れていないということ。
あはれ、を、女にかけている、というのである。
あはれ、の、心象風景が、さらに広がる。



源氏「生けるかひなきや、誰が言はましごとにか。

空蝉の 世はうきものと 知りにしを また言の葉に かかる命よ

はかなしや」と、御手もうちわななかるるに、乱れ書き給へる、いとどうつくしげなり。なほ、かのもぬけを忘れ給はぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。かやうに憎からずは聞えかはせど、け近くとは思ひよらず。さすがに言ふかひなからずは見え奉りてやみなむ、と思ふなりけり。


源氏は、生きるかいがないという言葉は、誰が言う言葉でしょう、と

空蝉の、この世は憂きものと知ったはず。
しかし、また、その言葉に、私は、死にたくなります。

たよりないことです、と、筆も、振るえるのである。
乱れ書きなさったが、それがまた、見事なものである。
矢張り、あの、もぬけの殻を、忘れていない。
ほしうもをかしうも思ひけり、である。気の毒のような、照れるような、気分である。
このように、如才なく、お手紙するが、関係が深く、近いとは、思わない。
といって、むげに、情け知らずとも、思われてしまわぬようにと、思うのである。

源氏の心境であるが、このような、部分が源氏物語の、難しさであり、よく解らないと、思われることである。
作者の思いも、どこかに入っている。
どこが、源氏の思いで、どこが、作者の思いなのか。
それを、考えつつ、読む。



かの片つ方は蔵人の少将をなむ通はす、と聞き給ふ。「あやしや、いかに思ふらむ」と、少将の心のうちもいとほしく、また、かの人の気色もゆかしければ、小君して、源氏「死にかへり思ふ心は知り給へりや」と言ひつかはす。

源氏
ほのかにも 軒ばの萩を むすばずは 露のかごとを 何にかけまし

高やかなる萩につけて、我なりけりと思ひ合せば、さりとも罪許してむ」と思ふ御心おごりぞ、あいなかりける。


あの、もう一方は、蔵人の少将を婿にした、と、お耳に入る。
これは、誤って関係した、女のことである。
変な話である。どう思うのだろうかと、少将の心中も、同情するのである。
それに、あの、女の心も知りたくて、小君を使いに出して、源氏は、死にそうなほど、焦がれている、私の気持ちは、ご存知ですか、と、言わせる。

わずかばかりも、軒端の萩を結ばなかったら、わずかばかりの、怨みも、言うことはできない。

背の高い萩に、結び付けて、人目を避けて、と、仰るが、ふっとそれが、少将の目に入り、源氏のものと、解ったら、いくらなんでも、許してくれようと、自惚れる。
あいなかりける。
作者の感想である。
つまり、自惚れることには、手がつけられない、というのだ。

かの片つ方、とは、伊予の娘である。
病気を、あなたのせいです、と、小君に言わせる。
夕顔の死に、心苦しく病になったことを、転化している、という、源氏の、浅ましさである。

この娘を、後に、軒端の萩、と、呼ぶようになる。
その娘が、少将と、結婚したと、聞くと、源氏は、それでも、文を渡すという、無節操ぶり。

もし、それが、少将に、見つかった時、源氏だと、解ってしまう。しかし、源氏ならばと、許されると、思う、源氏の自惚れを、作者も、呆れる。

創作している、作者が呆れるという、物語の手法である。
やることが、細かい。

物語を、本当だと、思わせる、手か。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第6弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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